第二章:記憶の漣、光の輪郭
朝日が、静かに、湖の表面に触れ始めた。
まだ、その光は、弱々しい。
しかし、その一筋が、水面に、小さな、無数の光の粒を撒き散らす。
きらきらと、まるで、誰かが、宝石をばら撒いたかのように。
それは、昨日までと何も変わらない、いつもの光景。
なのに、なぜか、今日は、その一つ一つが、私の網膜に、深く、焼き付く。
店内に、朝の光が差し込み始める。
年季の入った木のテーブルも、磨かれた床も、その光を吸い込み、うっすらと輝き出す。
古びた柱時計が、カチコチと、単調な音を刻む。
それは、時間の流れを、無慈悲に、そして、淡々と告げている。
私の内側に、何かが、さざ波のように、広がる。
焦り、だろうか。
それとも、この静かな時間が、やがて失われることへの、微かな予感。
カウンターの奥から、使い古されたマグカップを取り出す。
両手で包み込むと、まだ温もりの残るそれが、心臓の鼓動のように、ゆっくりと、私の手のひらに熱を伝える。
このマグカップは、祖父が、昔、このカフェで使っていたもの。
ずいぶん前に、彼は、湖の向こうへ旅立ったけれど。
このカップだけは、ずっと、ここに。
彼の指の跡が、薄く、まだ、残っているような気がする。
触れるたびに、あの、少ししわがれた声が、遠く、聞こえるような錯覚に陥る。
「ミヅキ、湖はな、お前の心を映すんだぞ。」
水が、蛇口から、静かに、流れ出る。
透明な液体が、ゆっくりと、マグカップを満たしていく。
水の表面に映る、自分の顔。
ぼんやりとして、どこか、掴みどころがない。
あの頃は、もっと、明確な輪郭を持っていたはずなのに。
何が、私を、こんなにも曖昧にしたのだろう。
それとも、元々、私は、水のように、形のない存在だったのだろうか。
外から、微かに、話し声が聞こえる。
今日の最初の客だろうか。
カラン、という、ドアの開く音。
それは、静寂を破る、最初の一音。
水面に、石を投げ入れたときのような、波紋が、私の心にも広がる。
静かな、この朝は、もう、終わり。
私の、内なる湖も、外の世界と、再び、繋がり始める。