第一章:静寂の序曲、湖の呼吸
夜明け前。
まだ、深い闇が湖の肌に貼り付いている。
凍てつくような湿気が、ガラス戸の向こうから、ゆっくりと這い寄る。
肌を刺すような冷たさ。
しかし、それは嫌なものではなく、むしろ、生きてる、という実感。
私はミヅキ。
二十と二つの歳月を、この水辺のカフェで、いや、この湖の傍らで呼吸してきた。
湖は、私の胎盤だった。
カフェ「水鏡」の開店準備は、いつもこの時間から始まる。
誰もいない、この世界で、私と、そして湖だけが、ただそこに在る。
昨夜の夢の残滓が、まだ、まぶたの裏で揺れている。
それは、いつも水辺の夢。
透明な水の中を、たゆたう。
重力から解放された、浮遊感。
誰かの声が、遠く、水底から響くけれど、何を言っているのかは、決して聞き取れない。
あの声は、誰の声だったか。
いつも、そこだけが、薄膜に覆われている。
カウンターに立ち、エスプレッソマシンのスイッチを入れる。
ヴゥン、という低いモーター音。
それは、湖の底から響く、地鳴りのようにも聞こえる。
珈琲豆を挽く、ガリガリという鈍い音。
香ばしい匂いが、静かに、しかし、確かに、空間に広がる。
この香りが、私を目覚めさせる。
私という存在を、確かな輪郭でなぞる。
水色のエプロンを身につける。
慣れた手つきで、ガラス窓を拭く。
湖は、まだ、深い眠りの中。
しかし、その表面は、すでに僅かにざわつき始めている。
それは、風が、水面に贈る、最初のキス。
あるいは、湖自身が、長い夜から覚醒する、微かな震え。
私の心臓も、その震えと、どこか同調している。
湖面に目を凝らす。
微かに光を帯び始めた東の空が、湖に薄い紫のベールを落とす。
昨日、いや、もっとずっと昔に、湖に沈んだ、あの光景。
水面に、きらりと光る何か。
それは、かつて、私が、湖に投げ込んだ、あの小さな石の残像。
それとも、失われた記憶の、きらめき。
湖は、すべてを飲み込み、そして、すべてを映し出す。
まるで、私の心のようだ。
見たくないものも、見せたくないものも、無遠慮に映し出す、水鏡。
水鳥が、一羽。
すうっと、静かに、水面を滑っていく。
その動きには、一切の迷いがない。
羽ばたきもしない。
ただ、流れる。
私も、そうありたいと、願う。
この、澱んだような感情も、いつか、清らかな水へと、還るだろうか。
そして、あの鳥のように、迷いなく、ただ、流れていけるだろうか。