喰い声の巷
祭りの夜が明けた翌朝。
結は市場の片隅、人気のない井戸の前で立ち止まっていた。
「……師匠。やっぱり、あの子に見られてました」
楓は、持っていた団子を口元に運んだまま、わずかに片眉を上げた。
「……あの戦いを?」
「ええ。提灯の陰から、ずっと。逃げる様子もなくて。……見られてました。斬りかかったところも、札を使ったところも、ぜんぶ」
「……それで?」
「気になって、探したんです。町の子どもみたいでしたけど……なんか、違和感があって」
「違和感?」
「その子、話すとき、妙に言葉が古いんです。“そなた”“まことに”とか……あと、眼が……」
そのときだった。
井戸の奥から、「ごぼ……ごぼ……」と、水の泡が上がる音がした。
「結、下がりなさい」
楓がすっと結の前に立った瞬間。
井戸の水面が破裂するように割れ、黒い影が飛び出した。
「ッ……!」
結は反射的に二刀を抜き、楓は片手に札を構えていた。
飛び出したそれは、獣のような、けれど異様に細い四肢を持つ“影の塊”だった。
「……喰声……」
楓がぼそりとつぶやく。
「師匠、それ……」
「人の声と記憶を食って育つ妖だ。しばらく前から、町の誰かに成り代わって潜んでいたんだろうな。……結、あの子の話を、もっと聞かせてくれるか?」
「……はい。その子、妙に“私たちのこと”に詳しかったんです。斬り方も、札の扱いも。昨日の一晩で、あそこまで詳しくなるなんて……」
「記憶を喰ってるからだよ。つまり、あの子は……」
影がぐねりと地面に沿って動いた。
人の形を取りながら、そこにいた“誰か”の声を模して、しゃがれた声を出す。
『……あさげ、できたよ……結……』
「……!!」
それは、七歳のときに亡くした姉、縁の声だった。
布団と台所の匂い、あたたかい朝の記憶──すべてが一瞬にして蘇る。
影は言葉を続けた。
『どうしてあの時、私を見捨てたの…?』
「……えっ」
『…あなたの、あなたのせいで、私は死んだんだ…!』
結の目が見開かれ、刃先がわずかに下がる。
心の奥で、しまい込んできた声が軋んで聞こえた。
──姉さんの死は、自分のせいだ。
「結!」
楓の鋭い声が、結の意識を引き戻す。
「その声に惑わされるな。あれは“喰われたもの”の模倣だ。心を盗まれるぞ!」
「は、はい……!」
結は一歩踏み出すと、札を左手に、右手に一本の刀を構えた。
影はくすくすと笑いながら、今度は違う声を使った。
『楓くん、また特訓?』
楓の身体が少しだけ強張った。
「やめろ……」
『楓くん、今日から君は僕の…』
「やめろと言ってる!!」
楓から発せられた急な大声に今度は影の動きが強張る。
結が、踏み込んだ。
刃が空気を切り裂き、札が光を纏って飛ぶ。
影はそれを避けるように後退し、井戸の中に潜ろうとした──が、その背後に楓がいた。
「……結、今!」
「はい!!」
残りの一枚の札を、結は影の中心に向かって投げた。
空中で札が広がり、光の紋が走る。
その一瞬、影の動きが止まり──
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符___封!」
楓の一声で、札が術式に転じた。
影がまるで液体のようにねじれ、ばらばらに引き裂かれるようにして、井戸の口の中へ吸い込まれていった。
やがて、水音だけが残り、静寂が戻る。
「……あの子は?」
結が、井戸を見下ろしたまま尋ねた。
楓は数秒、目を閉じていた。
「もういない。あれが“声”と“姿”を真似ていたんだろう。本物の子どもがいたかどうかも……分からない」
「…そう、ですか」
結は何かを考え始めた。
楓が結の思考を遮るように口を開く。
「縁くんの死は、君のせいじゃない。」
「………でも、姉さんは……」
「あれは妖だ。縁くんじゃない。
それとも結は、彼女が自分を傷つけるようなことを言う人だと思ってるのかい?」
「……いいえ、思いません。
あの人は、とても優しい」
「そういうことだ。さ、帰ろうか」
結は頷くと、そっと井戸に一礼をした。
何に対してか、自分でも分からなかった。けれど、礼をしなければいけない気がした。
◇
「……師匠、また団子買って帰ってもいいですか」
「特別に良いよ。……ただし今日の分だけね?」
「…師匠の選択に任せます」
「またその顔で言う〜! その顔で!!」
町にはすでに、朝の陽が差し始めていた。
いつもと同じ一日が始まる。だけど結だけは、ほんの少し、強くなったような気がしていた。