黄泉の道にて
「……?」
目を開けると、そこは音のない闇だった。
地平線もなければ、天の色もない。全てが、黒い。
皮膚に空気の感触があった。呼吸もできる。だが、心臓はもう動いていないのだと、どこかで理解していた。
「……ああ、ここは地獄か」
誰に言うでもなく、楓は呟いた。
天国や地獄があるなどと、信じたことはなかった。
だが、己が弟子の刃に倒れ、こうして“生きていない感触”の中に立ってみれば、信じざるを得ない。
ここは――終わりの場所だ。
そのとき、背後に気配があった。
楓が振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
「……縁くん」
返事はない。けれど彼女は確かに、そこに立っていた。
影と闇の中に、淡く浮かび上がるように。
大人びた輪郭の中に、かつての無邪気さが、かすかに残っていた。
「……ここで会えるとは思ってませんでした」
縁が、微笑を浮かべて口を開く。
「もっと、先のことかと」
楓はその言葉に、ひっかかりを覚えた。
“先”? つまり死ぬことを予測していたのか?
「……君、全部気づいてたね?」
「全部ではありませんよ、さすがに。でも――楓さんが、見た目より随分と長く生きているだろうってことは、なんとなく。そして、なにかしらの目的を持っていることも」
縁の声音は、どこか柔らかく、そして遠い。
楓は小さく笑った。
「恐ろしいね。危険物だと分かっていながら、あの子を預けたとは」
「…楓さんなら、育ててくれると信じてた。実際、ちゃんと育ててくれました。結はもう、ひとりでも大丈夫です。
…結、なんて言ってましたか?
「……“ごめんなさい”と」
「ふふ、優しい子ですね。私に似て」
縁はふっと顔を逸らした。踵を返す。
「――案内します。着いて来てください」
◇
どれだけ歩いても、地平が見えない。
地面は黒く、空もない。風も吹かない。
ただ“進む”という行為だけが、この闇の中で唯一生きていた。
「……君が、地獄行きとは思わなかったよ」
楓が呟いた。
縁は足を止めずに答える。
「どんな理由であれ、殺しは殺し。…地獄が正しい罰かどうかは分かりませんが…。なんにしろ、覚悟の上でした」
言い切ったその声は、どこまでも澄んでいた。
「……そういえば、”目的”は達成できましたか?」
「何もできなかったよ」
楓は、直後言い直した。
「いや、…それも違うな。結が、私を止めてくれた。あの子が居たから、私はここにいる」
「つまり、解放されたというわけですね」
「……ああ。皮肉なものだ。利用しようと育てた弟子に、最後、救われるなんて」
その言葉に、縁は何も言わなかった。
闇の道を、ふたり並んで歩く。
しばらくして、楓がぽつりとこぼした。
「…結には、悪いことをした。あの子は、これからどうなるんだろう」
縁が初めて、立ち止まって振り返る。
「それを決めるのは、結自身です。――信じましょう、あの子を」
静寂が、再び訪れた。
やがて、縁が口を開く。
「ここから先に進むと、もう戻れません」
楓は少し目を細めた。
まるで、光も影もないこの世界で、何かを見ようとするように。
「……会っておきたい人は、いませんか?」
楓の心に、一人の顔が浮かんだ。
優しい目をした兄。
いつも座敷牢の前に立ち、話しかけてくれた人。
誰よりも信じ、誰よりも失いたくなかった人。
だが、楓は静かに首を横に振った。
「彼は天国の住人だ。私とは、住む場所が違う」
「……そうですか」
縁もまた、表情を変えなかった。
ふたりは再び、歩き出す。
どこまでも暗い黄泉の路。
けれどその足取りは、どこか迷いがなかった。
――やがてふたりは、闇に呑まれ見えなくなった。
初めまして、辻桃です。
創作は好きだけど最後まで終わらせれなかった私が、初めて最後まで書いた作品です。
結と楓、そして彼らを取り巻く登場人物たちの姿が、少しでも心に残ってくれたら嬉しいです。
これにて室町異聞は終了です。
全46話という短い間でしたが、お付き合い頂きありがとうございました。




