師と弟子
結は、二刀を抜いた。
対する楓は、いつもの一刀ではなく、短刀――それでも、勝てる気がしなかった。
結の動揺は隠せなかった。目の前の現実を、まだ受け止めきれずにいた。
だが、それ以上に――育ててくれた師匠を、斬るという事実が、胸の奥に重くのしかかっていた。
刹那、結の片方の刀が弾かれた。
反射的に手を庇い、鮮やかな血が掌から滴る。
楓の片目は、冷たく、暗く沈んでいた。
「……どうして、」
自分でも驚くほど、か細い声が漏れた。
「こんな結末が待っているのなら、なぜ私を育てたんですか。どうして、生きる術を教えたんですか――!」
言葉が止めどなくあふれ出す。心の奥底にしまい込んでいた想いが、輪郭を得て暴れ出す。
「…縁くんに頼まれたからだ。君を利用するために引き受けた」
「……本当に、それだけなんですか?」
楓の瞳が、わずかに揺れた。
「最初から最後まで、ずっとそのつもりだったんですか?利用するだけの人が、手紙を残しますか?あんなふうに、丁寧に教えてくれますか?」
「……私は人間じゃない」
「関係ありません!!“自分の目で見ろ”って、師匠が教えてくれたんでしょう!!」
涙混じりの叫びだった。こんなふうに、感情をむき出しにしたのは、いつ以来だろう。
――姉さんが死んでから、何も言えなかった。何も、言ってこられなかった。
「……また私は、独りになるんですか……」
それは、心の底からの本音だった。
楓はしばし黙したまま、ゆっくりと指を動かす。
「――っ」
黒い瘴気のようなものが立ち昇り、結の身体を絡め取る。動けない。
「……正直なところ、少しだけ期待していたんだ。君が、兄上のように、私を救ってくれるのではないかと。私を追いかけて、止めてくれるのではないかと」
語りながら、楓の声がどこか遠い。
「何も期待しないと決めていた。信じないと決めていた。……なのに、駄目だった。こんな形で終わりたくなかった。
だから、手紙を残した。君と、きれいに別れたかったんだ」
楓は短刀で自らの指を切った。血が零れ、札の結界へと染み込んでいく。
「…我ながら、自分勝手な男だと思うよ」
「……許してあげるので、やめてください」
「ごめんね。もう、“向こう”と私は繋がってしまっているんだ」
楓は結界へと向き直った。赤黒い目が、札を見つめている。
滴った血が最後の鍵となり、結界が完成する。
――どくん、と胸の奥が鳴った。
今、師匠を止めなければ、全てが終わる。
想像もつかない数の命が失われる。
でも、そしたら、師匠は―――
結は懐から札を取り出した。
抑えられていた妖を斬り、力を振り絞って結界から抜け出す。
刀を握り直し、楓のもとへと走る。
そして――
――――刃が、楓を貫いた。
直後、結界が破れ、向こう側との接続が断ち切られる。
異界の気配が霧散し、重苦しい空間が一気に静寂へと変わる。
「ごめんなさい、師匠……」
胸の奥から絞り出すように、祈りにも似た言葉を呟いた。
楓の身体が、ゆっくりと崩れ落ちた。
――音が、消えた。
結はその場に立ち尽くした。
そして、糸が切れたように膝を折る。
「…っ、あぁ、あ“ああああああああ!!」
堰を切ったように、涙があふれ出す。
結を慰めてくれる人は、もう誰もいなかった。




