戻り道にて
宿の一室。夕暮れが障子を赤く染める。
結は状況が処理できずにいた。
“ここからは連れていけない。”
どうして、そんないきなり。
「…だめだ、冷静にならないと」
焦りは禁物。楓がいつも言ってた言葉である。
もう一枚の紙を開いてみた。
白紙のまま、何の文言も記されていない。
(…なんで、白紙?)
結はそっとそれを持ち上げた。手触りは普通の和紙。墨の匂いもない。光に透かしても、何も浮かばない。だが――
「……あれ」
ふ、と鼻先をかすめた微かな香り。どこか懐かしいような、けれど日常では嗅ぐことのない、淡い柑橘の匂い。
(まさか――)
宿の囲炉裏にはまだ火が残っていた。結はそっと紙を火にかざす。直接触れぬよう距離をとり、じわりじわりと熱を与える。
しばらくして。
「……出た」
和紙の表面に、浮かぶようにして現れた文字。
“言い忘れたことがあるなら、来た道を歩いてみなさい。時間はまだ残ってる。“
思わず紙を強く握ってしまいそうになり、慌てて手を緩める。結はじっと文を見つめた。
(…言い忘れ、というより、聞きたいことが山ほどある)
結は少し悩んだあと、決めた。
「……行こう」
立ち上がり、文を懐に仕舞った。刀の重みを腰に感じながら、結は扉を開ける。
旅を振り返る。楓に会うために。
◇
木漏れ日揺れる山道を抜け、結は宿を出た。
あの宿に来る前に通ったのは海辺。確か、魚を取って食べた。
その前はずっと道に沿って、結構進んだところで烏たちに会って。
また浜に出て、そこの前の花街で紅音たちに会って…。
そこで、波の音がした。潮の香り。風に混じる海鳥の鳴き声。
そこは、広々とした浜辺だった。
「…いつのまに」
考えながら歩いていたからか、すぐに着いた。身体が引かれるように足を進める。
海岸には何艘もの小舟が引き上げられており、数人の男たちが船体の手入れや網の修繕をしていた。その中に、ひときわ声の大きい男がいた。
「ったく、もう少し丁寧に縫えっつってんだろ!波に呑まれたらどうすんだ!」
がなり声とともに笑いが響く。その男がふとこちらを見て、目を見開いた。
「おい、あれ……結じゃねえか?」
その声に、結も顔を上げた。
日焼けした肌。鍛えられた腕。朗らかな笑顔に、どこか懐かしさが混じっている。
見覚えがある。
「……隼さん?」
「やっぱりおまえか!おーい!」
手を振りながら駆け寄ってくるその男は、水軍の頭首・鷹津 隼。
そういえば、前に彼の依頼を受けた。
「…完全に忘れてた」
「ひでぇなおい、久々の再会だってのに」
「なんでこんな所に…」
「食料調達のために陸に上がったんだ。1人か?楓は?」
その名を出された瞬間、結の胸に不安が波打った。
「……師匠を、見ませんでしたか?」
声が、自然と沈む。
隼はきょとんとした顔をしたあと、腕を組んだ。
「いや?さっき上がったばっかだし…なんだ、逸れたのか?」
「そうではなくて」
これまでの経緯を話した。
隼は言葉にもならなかったらしく、黙って聞いていた。
「来た道を戻れ、とあったので今戻っていってます。心当たりはありませんか」
「心当たり…心当たりかぁ。あいつはすぐ現れて消える奴だからな、どうにも…」
そこまで言って、隼は気づいた。
「そういや昔言ってたな。海は証拠を全部流してくれるって」
「……はい。はい?」
「いや、っていうのはな。わざわざその言葉を残してるなら、結ちゃんのために何か印くらいつけてるだろ?だったら海の近くには無いんじゃないか?」
隼の言葉に、結は目を瞬いた。
「……印を、つけている?」
「印っつうか、痕跡?跡?あいつ、そういうところは律儀だからな。何も言わずに消えるように見えて、実際は色々準備してやがる」
「師匠らしいですね……」
思わずこぼれた言葉に、隼は「だろ?」と笑った。
「で、結ちゃん。戻るって言っても、どこまで戻るつもりなんだ?」
「……師匠と、出会ったところまで
「ずいぶん遠くまで来たんだな」
「はい。でも、戻らなきゃいけない気がするんです。あの文に書いてあったから…じゃなくて、多分、私自身が、戻らなきゃって思ったんです」
その言葉に、隼の目が細まる。
「……まだ小さいのに、立派なもんだなあ」
「小さくないです」
「小さい小さい。俺の背の半分じゃねぇか」
軽口を叩きながらも、隼はすぐに真面目な表情に戻る。
「じゃあ、船で少し送ってやるよ。沿岸までならすぐだ。そこから陸路に戻れば、だいぶ時間が節約できる」
「……いいんですか?」
「そりゃあな。楓の弟子だもんで、貸しの一つくらい返してもらわなきゃ困る」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げると、隼はくしゃりと笑いながら肩を叩いた。
「それにしても、“言い忘れたことがあるなら”か。あいつがそんな言い回しするなんて珍しいな」
「……ですよね。なんだか、言い残してるのは私のほうみたいです」
言ってから、結は自分の言葉に驚いた。思わず本音が漏れたような気がして、少しだけ目を逸らす。
隼はそれを咎めることもなく、「よし」と大声を張り上げて部下を呼んだ。
「ちょいと船、出すぞー! 港町の方へ送る!」
「はいよ、親方!」
漁師たちが船を動かし始める。音もなく水を割る小舟は、海に浮かぶと静かに揺れていた。
「じゃ、乗れ。しっかり掴まってろよ」
結は頷き、船に足をかける。
波が穏やかに岸を洗っている。
空はもう、夕暮れを深く濃く染め始めていた。




