結、ひとり
日が傾く山道を、結はひとり歩いていた。
風が頬をかすめ、揺れる木々の隙間から射す光が道をまだらに染めている。手に握られた文には、たった一文――「来てほしい。内容は会ってから話す」とだけあった。
「差出人は、もうこの世の人じゃないらしいけどね」
朝、出立の際に楓が言ったその言葉を、結は何度も思い出していた。柔らかく笑う楓の顔。いつも通りで、何ひとつ変わらない、どこか不自然なほど平然とした笑顔。
「あなたは来ないんですか」と尋ねると、楓は肩をすくめて言った。
「これは君に任せる。たまには一人で動くのもいい経験になるだろう?」
そして背を押されるように、結は旅に出たのだった。
◇
その村は、山の奥にひっそりと佇んでいた。
古びた茅葺きの家々が並び、細い道を行き交うのは年配者ばかり。子供の姿はない。村人たちはどこか怯えたような目をしていたが、結が訪ねてきたと知るとすぐに村長に取り次いでくれた。
村長の家で語られたのは、奇妙な話だった。
「この文の差出人の名は、数年前に亡くなった男です」
「……亡くなっているのに、どうして文を?」
村長は首を振り、重たげに言葉を続けた。
「死の間際、その男はこう言ったのです。『まだ村に紛れている。あれは人ではない、見つけて退治してくれ』と」
結は黙って聞いていた。村のどこかに、人間の皮を被った妖がいる。その男は生きているうちに気づき、死の直前にそれを伝えようとしたのだ。
(師匠は…最初からこのことを知っていた?)
文の真意は「妖の正体を見抜け」という試練だったのかもしれない。
◇
村を歩く。
畑を耕す者、炊事に精を出す者、物陰からこちらを伺う者……。
誰もが普通で、誰もが不自然だった。
そんな中、一人の老婆に声をかけられた。
「お疲れでしょう。お茶でもどう?」
腰を曲げた小柄な女。皺だらけの顔はどこか柔らかく、目元に優しげな光を湛えていた。
警戒を抱きつつも、結は頷いた。
◇
古い家の中、薬草の匂いが鼻をくすぐる。
「まあまあ、遠慮せずに。これでも温かいのが取り柄でね」
差し出された湯呑を受け取る。口はつけない。
「一人旅とは勇ましい。あなた、あの眼帯の男と一緒にいる子かい?」
湯呑を持つ手がぴたりと止まった。
なぜ師匠のことを知っている?
「……ええ、そうですが」
「ふふ、やっぱりねぇ。あの野郎が来ると思ってたのに、来たのは小娘か」
老婆の目が、色を変えた。黒く、深く、爛れて、光を飲むような瞳。
「…あなたが、妖?」
「昔ね、あの眼帯の奴に封じられそうになったんだ。返り討ちにしてやろうと思ってたのに、弟子を寄越すなんてね……腰抜けたよ!」
肉が裂ける音がした。
老婆の姿がぐにゃりと崩れ、獣のような骨の突起を生やした姿に変わった。口が裂け、爪が伸びる。
「アンタで我慢してやるわ!」
◇
二刀を抜いた。
刃が火鉢を蹴り飛ばし、結は狭い空間の中で距離を測る。
(落ち着け、見極めろ。相手の芯を――)
初手は速かった。
妖の腕が飛び込んでくるが、躱し、斬る。浅い。肩を裂かれるが、痛みに飲まれず、再度踏み込む。
腕を振り上げ、結の三つ編みが揺れた。
「簡単にやられるわけには……っ!」
一閃。
妖が悲鳴を上げ、黒煙を撒いて消えた。
静けさが戻る。
結は息を吐き、剣を納めた。
◇
村長に報告すると、涙を浮かべながら感謝された。
これでもう安心できる、と。
倒れこまずに立っていられた自分に、結はほんの少しの自信を抱いた。
でも、楓が狙われていたのは事実。
結はそれがどうしても引っかかっていた。
(…なぜ、師匠が狙われていたんだろう)
急足で楓の待つ宿へ向かう。
――しかし、そこに楓の姿はなかった。
「眼帯の男の方なら、もう帰られましたよ。これを預かっています」
女将から差し出されたのは、二枚の紙だった。
結は一枚目を開いた。
「……え、」
一枚目には、たった一行だけ。
”ここからは、連れていけない“




