自由と妖と悪戯
「――焙烙火矢?」
カラン、と音を立てて足元に転がったそれに、結は思わず身を翻し、地面を蹴った。跳ねた先で振り返ると、楓がしゃがみ込んで焙烙火矢を拾い上げている。
「火は……付いてないみたいだね」
落ち着き払った声に、結は一拍遅れて息を吐いた。
「びっくりさせないでくださいよ、もう……!」
「村人からの依頼とは聞いてたけど、歓迎の仕方が随分独特だ」
楓が焙烙火矢をくるりと回した、そのとき――
「ばーか!火なんかつけるわけねぇだろ!」
甲高い声が、頭上から降ってきた。
見上げると、枝の先に座る小さな影がある。陽の下に輪郭を晒したのは、子供ほどの大きさの妖だった。宙にふわりと浮かび、身体の周囲は淡い煙のようなものでぼやけている。
「…これが、依頼の妖ですか?」
「そうみたいだね。随分と小さい」
楓が札を取り出した瞬間、妖はぎょっとしたように枝から飛び上がった。
「ちょちょ、待った待った!!その札! それ使ったら、あれだろ、眼帯の下のその目の中に、閉じ込められるやつだろ!?」
(目…?)
結は思わず楓の顔を見たが、彼はその視線を受け流したまま言葉を返す。
「そう嫌がるなら、悪戯をやめてもらおうか。村の人たちは困ってる」
「いやだね!」妖は笑った。「だってさ、俺、暇なんだもん!」
「なら封印するしか――」
「待ってって!ちゃんと話すってば!」
妖は宙に浮かんだまま、両手をばたばたと振った。
「……ずっとこの村から出たことないんだ。今も、今のそのまた前も。だからさ、一回だけでいい、外の世界を見てみたい。見て終わったら、俺は消えるから。お願い、頼む!」
真剣な目。生きている者と変わらぬ、懇願の表情。
楓は小さく目を細めたのち、結の方へ視線を向けた。
「…結、おまえが決めなさい」
「……え、私?なんで…」
「たまには良いだろう」
結は戸惑いながらも、真っ直ぐこちらを見る妖と向き合った。
「……今日、一日だけ。それで、ちゃんと約束を守れるなら」
「守る! 絶対!」
◇
結と妖は村を出て、川のせせらぎに耳を傾け、森の光を浴び、小さな町を歩いた。
紙風船に夢中になり、団子屋で香りに誘われ、空を見上げてはしゃぐ妖。その姿は、ただの無邪気な子供のようだった。
「なんか、変ですね。人間みたい」
「もとはそうだったんだろう。違うか?」
その言葉を聞いた妖は空を見上げながら、ぽつりと言った。
「そうだよ。俺、前世は平凡な人間だった。でも、見た目が周りと違ったんだ。それで母さんにも見捨てられて、なんかの生贄に捧げられそうになって…」
妖はしゅん、とうつむいた。
「逃げたけど、殺された。あの時の大人の顔こそ妖怪だったぜ。
…ずっと、外に出てみたかった」
結は、その言葉に静かに答えた。
「…あなたは今自由だよ」
妖は目を見開き、そして、にっこりと笑った。
◇
夕暮れの村に戻ると、様子が一変していた。
倒された物干し竿。壊れた桶。水の濁った用水路。
「妖のせいだ!」
「やっぱり信用できなかった!」
村人たちの罵声が響き、結と妖を取り囲んだ。
「待ってください!」結が叫ぶ。「この子はずっと私と――」
「ならこの異変は何だ!? 結局、妖は妖じゃないか!」
結が振り返ると、妖は無言で立っていた。だが、その目がかすかに、濁っていた。
「……本当に、あなたが?」
結の問いに、妖は口元を引きつらせた。
「……変わらないんだよ、俺の運命は。どんなに真面目にしてたって、結局は“閉じ込められる”んだ」
黒いもやが、妖の身体から立ち昇る。
「やめて!」
村人の叫びと同時に、妖の影が膨らんだ。
次の瞬間、よく知った言葉が聞こえた。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符___封」
楓の声と共に、札が風を切った。光が弾け、結界が走る。
そして――妖の姿は、静かに消えた。
◇
その夜。
村を離れた帰り道、結はぽつりと呟いた。
「…あの妖、いきなり変わりましたね」
「“妖”の負の感情に取り憑かれた奴を何回も見ただろう。根が純粋でも、上書きされることはよくある
楓の声は淡々としていた。
「信じるっていうのは、思ったより重かっただろう?」
風が葉を揺らす音だけが、会話の余白を埋めていた。




