届かぬ背
風が、静かに草を撫でていく。
林の中、木洩れ陽がゆらゆらと揺れ、遠くで鳥の囀りが響いていた。ここ数日は依頼もなく、楓と結はのんびりとした旅の途中。近くの宿場町まであと半日という道のりを前に、今日は小さな林のそばで腰を落ち着けていた。
「……師匠」
ぽつりと結が口を開いたのは、焚き火の準備も終わり、昼餉までまだ少し間がある頃だった。二刀を膝に置きながら、結は真っ直ぐに楓を見つめる。
「久々に、相手をしてくれませんか」
楓は湯を啜っていたが、手を止めて結を見やる。
「えぇ〜、汗かきたくないなぁ。せっかくの昼下がりに」
「自分の実力を試してみたいです」
「……そこまで言うなら、まぁいいか。ただし、本刀はやめようね」
そう言って楓が取り出したのは二本の竹刀だった。持ち手はしっかり巻かれ、よく手入れされている。まるで、いつでも模擬戦ができるように準備していたかのように。
結は(どこから取り出したんだ)と思いながらで竹刀を受け取る。
互いに間合いを取り、林の中に静けさが戻る。風が吹き、草が揺れ、楓と結の視線が交錯した。
「始めようか」
楓のその一言を合図に、結が一気に踏み込んだ。
◇
結の動きは鋭かった。二刀を自在に操り、右で攻め、左で牽制し、また攻める。木々の間を縫うように滑り込み、斬撃を繰り出す。
だが──楓の動きは、それを上回っていた。
片手の竹刀で、軽く受け流し、時折足をすくうように軽く小突く。まるで、ままごとの延長のように。彼の表情は涼しげで、まるで退屈しのぎのようだった。
「こらこら、勢い任せはだめだよ」
「……っ、分かってます!」
結が低く声を出す。
汗が額を伝い、息が少しずつ上がっていく。だが、楓は一向に乱れない。まるで最初から、結を相手にしていないかのように。
──カッ。
結の竹刀が弾かれ、空中を舞った。
「一本、かな」
「……もう一回!」
拾い上げた竹刀を握り直し、結が再び立ち上がる。
◇
三度、四度。
結は何度も挑み、楓は何度も受け流した。地面には踏みしめた跡が交差し、二人の周囲の草は踏み潰されていた。
「終わりだ、結。これ以上は無駄に疲れるだけだ」
「……やだ」
「やだ、は通らない」
「じゃあ……!」
結が叫ぶように踏み込んだ。
「本気で、斬ってきてください!!」
竹刀が真っ直ぐ、楓の胸元へ飛ぶ。その一撃に迷いはなかった。技も気迫も、すでに十分な水準に達していた。
だが──。
ヒュ、と風を切る音の直後。
ゴッ、と鈍い音が響く。
──次の瞬間には、結の竹刀はまたも空を舞い、結の動きは完全に止められていた。
彼女の額に、竹刀の柄がそっと触れていた。楓は表情を変えず、そのまま一言。
「…手にマメが出来てるぞ。終わりだ」
結は、口を噤んだ。
「……」
呼吸は荒れ、腕は震え、全身が汗に濡れていた。けれど楓は、ほとんど動いていなかった。
負けた。完膚なきまでに。
「……はい」
静かに、結はもう片方の竹刀を下ろした。
◇
それから少しして、地面に腰を下ろしていた二人。風はやや強まり、枝葉がざわめいていた。楓は水を一口飲んで、ぽつりと呟いた。
「精進しなさいね」
「……はい」
その返事は、先ほどよりも静かだった。
結は口を開きかけて、ふと問いを漏らした。
「…なんで私は二刀で、師匠は一刀なんですか」
楓は小さく笑った。
「二刀は守りと攻めが同時にこなせるからね。お前にはちょうど良いだろう。私は怪我しないからね。守る必要がない」
「……そういえば、師匠が怪我してるの、見たことないですね」
「ないさ。だって私は強いから」
冗談めかして言って、立ち上がる楓。腰の竹刀を仕舞いながら、結に向かってぽつりと言った。
「でも、昔よりはキレが良くなってるね。さすが私」
「……弟子を褒めるところでしょう、それ」
「褒めてるじゃないか。私の指導力を」
「…師匠は昔から変わらずで何よりです」
結は呆れながらも、どこか少し嬉しそうだった。
届かないと思った背中は、確かにまだ遠い。けれど、少しだけ近づいている──その実感が、彼女の胸に、じわりと温かく灯っていた。




