母のフリをするもの
「ねえ、母さん。明日も遊ぼうね」
「もちろんよ」
女の声は柔らかく微笑み、少女の髪を撫でる。その手は確かに温かく、呼吸をして、香りがした。
けれども、あの“母親”は――すでに死んでいた。
◇
山里の小さな村へ向かう道中、楓と結は、ある青年に呼び止められた。旅人風の格好をした、二十代前半の青年だった。
「すみません、あんたら、妖の退治とかできる方ですか」
「まあ、できないこともない。何か御用で?」
楓が穏やかに返すと、青年はどこか焦りをにじませながら言った。
「――“あれ”は、きっと人間じゃないんです。だけど、みんな、何も言わない。むしろ、歓迎してるんだ」
話によれば、村に暮らす少女の母親が数か月前に病で亡くなった。葬式も終え、墓まで作られたという。だが、半月ほど前、突如“その母親”が戻ってきた。村人たちは誰一人それを怪しまなかったが、彼だけが違和感を拭えずにいた。
「娘の笑顔を見てると、無理に壊すのもどうかと思って……でも、何かがおかしい。俺には、あの女が“人間”には見えないんです」
結は青年の話を聞きながら、ちらりと楓を見た。
「師匠。どう思います?」
「聞く限りだと、典型的な“入れ替わり”に思えるが…村全員がそれを受け入れているとなると、何か別の可能性も考慮した方がいいね」
そう言って、2人は青年に案内され、村へ向かうこととなった。
◇
その村は、ごく普通の、山に囲まれた静かな集落だった。
だが、そこに暮らす人々の“空気”には、奇妙な柔らかさがあった。まるで何かを見て見ぬふりしているような……そんな雰囲気。
案内された家の前に着くと、青年は一歩引いた。
「ここです。……見ててください。たぶん、もうすぐ出てくる」
まるで予告通りに、木の引き戸が開き、女が姿を見せた。
――美しかった。
髪を後ろに束ね、淡い色の着物に身を包んだ女性。物腰はやわらかく、にこやかに近づいてくる。
「まあ、旅のお方? お疲れでしょう、よろしければお茶でも――」
「母さん、誰か来たの?」
奥から顔を出したのは、まだあどけなさの残る十歳ほどの少女だった。髪を二つに結い、笑顔を浮かべている。
「こんにちは。私は結、こっちは師匠の楓。ちょっと、この村のことを見て回っててね」
「ふぅん。いいよ。お母さんと遊んでるだけだから」
少女はそう言って、にこりと笑った。その笑顔に、結は思わず目を細める。
けれど、同時に、ひっかかる。
――母親を失った子どもが、あんなに自然に振る舞うだろうか?
◇
日が暮れてから、楓と結は再び青年と会い、密かに家を訪れることにした。
家の灯りの漏れる障子の隙間から覗くと、女は針仕事をしており、少女はその隣で本を読んでいた。
「……本当に、普通の親子に見える」
結が小声で言うと、楓もまた真剣な表情で頷いた。
「でも、やはり何かが不自然だ。あの“母親”の目には、感情の起伏がない。完璧に振る舞いすぎている」
「じゃあ、やっぱり妖?」
楓はしばらく黙ってから言った。
「……いや、“違う”気がしてきた」
◇
夜も更けたころ、少女が眠ったあと、楓と結は女に接触した。
「貴女、どこから来た?」
楓の問いに、女は穏やかに答えた。
「私は、この子の母です。ただ、それだけです」
「貴女は妖だろう?」
問いを重ねても、女は否定も肯定もしなかった。ただ、静かに言った。
「この子が私を望んだから、私はここに在る。それだけのこと」
その瞬間、楓の目が細まった。
「……なるほど。そういうことか」
「師匠、どういうことですか?」
結が尋ねると、楓は結に向き直り、低く言った。
「この女は――“演じさせられている”。娘の想念が強すぎて、妖がそれに引き寄せられ、“母”を演じさせられているんだ」
「……演じさせられてる?」
「そう。本人の意思ではない。誰かの強い“願い”が、妖を縛っている。ある意味では“呪い”に近い」
結は息をのんだ。
「……そんなことができるんですか?」
「人の執念は時として妖をも縛る。それが、この世界の面白いところだよ」
女はそれを聞いても動じなかった。ただ、娘の寝顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「私は、この子の母であり続けたい。それがたとえ“ただの願い”であっても…私が私である限り、この子が望んでいる限り、本物でしょう?」
結は、何も言えなかった。
◇
翌朝、少女は目を覚まし、母に手を引かれて外に出てきた。
その背を、楓と結が見送る。
「このままでいいんですか、師匠」
結が問うと、楓は小さく肩をすくめた。
「本人が望み、周囲もそれを受け入れているなら、それが“現実”になる。正しさなんてものは、時に残酷だからね」
結は黙った。
「…納得いかないって顔だね?」
「……私は、あの子が本当の別れに直面したとき、立ち直れない気がします。期待をすればするほど、その時の絶望は大きい」
「いたいげな十の女子に、あれは君の妄想だと伝える勇気があるのかい?」
「…いいえ。それは、無理です」
「だろう?知らぬが仏さ。…今救われているなら、それでいいって事もあるんだよ。何にしろ、私たちが決めることじゃない」
そう言って、楓は歩き出す。
結もまた、迷いながらもその背を追った。
そしてふと思う。
――いつか、あの子がこの“幻”から目覚めたとき、彼女の心が壊れないように。
自分たちがこの世界に関わる意味も、そんなところにあるのかもしれないと。




