夜市
薄曇りの空が、夕刻の光をぼんやりと受け止めていた。
山間を抜け、古びた街道沿いの村へ向かう途中――結は何気なく、風の匂いに混じる異物に気づいた。甘さと渋み、湿った土と獣の匂い。そして、どこか――“人ならざるもの”の気配。
「…師匠、何か変な匂いがしませんか?」
「ふむ。どうやら運がいいらしい」
そう言って楓は、道の脇へと逸れた。薄く開かれた竹林の向こう、ひっそりとした空き地に、ぽつりぽつりと明かりが灯っている。提灯に映る文字は読み取れないが、どうやらそこは、臨時の市のようだった。
「まさか、今日だったとはね。年に一度とも限らぬというのに」
「今日…?」
「“夜市”だよ。妖と人が共に集う、特別な市さ。商いが目的の者もいれば、単なる冷やかしもいる。だが、ここに集う者すべてが“人”とは限らない」
その言葉通り、奥に進むにつれ、結の目に映るものは次第に異様さを帯びていく。
屋台には奇妙な物が並んでいた。澄んだ水の中に浮かぶ”感情のかけら“、空を映したような小瓶、触れれば音が消える鈴、色を飲み込む羽根、名前のない古書、そして、微かに人の形をとどめた陶器の仮面…。
見れば見るほど、どれもが常ならぬ気配を持っているのに、市場を行き交う人々はごく普通に買い物を楽しんでいる。目を細めれば、明らかに“化けている”妖の姿も見えるのに、それに誰も驚かない。
「…妖も上手く化けるものですね」
「そういうものだよ」
楓は笑い、ふと結の肩を軽く叩いた。
「私は少し探したい品がある。お前は好きに見てくるといい」
「え?一緒に…」
「人混みは苦手でね。すぐに戻るつもりだから、勝手に動かないように。いいね?」
不安げな結の視線を受けつつ、楓は人ごみに紛れていった。
◇
しばらく市場を歩いてみたものの、結の不安は消えなかった。
「……師匠、遅い」
ちらちらと人波を見渡しても、楓の姿は見当たらない。背格好も目立つはずなのに、どれだけ探しても、あの涼しげな眼帯の男は見つからなかった。
(…しまった、はぐれたか)
結はため息を吐いて、通りの端に身を寄せた。肩が当たるたびに、冷ややかな視線やら柔らかな笑みやらが向けられる。気が抜けない。こんなところで、下手に妖と目を合わせたら何を取られるか分からない。
――そのとき。
ふと、脇道の小さな屋台に、ひときわ異質な輝きが灯っているのが目に入った。
色彩はないはずの闇に、柔らかく紫が染み出していた。引き寄せられるように近づいた結は、棚の上に並ぶ小瓶の一つに、目を奪われた。
薄紫の液体に包まれたガラス瓶。その中に浮かんでいたのは、どこか懐かしいような、温かさと切なさの入り混じった景色だった。
――二人の男の子が、夕暮れの庭で手鞠をしている。
一人は髪の長い、薄汚れた衣を纏った子供。もう一人は綺麗な着物を着て、髪を一つに結っていた。武家の子だろうか。
あまりにも対照的なその2人は、顔こそ見えないが楽しそうだった。
瓶の中の世界で、武家の子が手を差し出す。
「楓くん、こっちだよ」
「……え?」
思わず、結は息を呑んだ。
「…“楓くん“?」
楓――師匠の名前だった。
こんな偶然、あるだろうか?いや、それとも――。混乱しながら、瓶の中に視線を戻す。少年たちの顔はぼやけていて、はっきりとは見えない。ただ、確かに――「楓くん」と、呼んでいた。
(これは……師匠の……?)
瓶の隣には、品物の説明や価格もなく、屋台の奥にいると思しき主も、長い袖を被って眠っているのか、まるで反応がない。
結は意を決して声をかけようとした。
「すみません、これは――」
「結」
肩越しに、静かな声が落ちた。
びくり、と肩が跳ねる。振り返れば、青紫の着物、黒い眼帯。
――楓だった。
「し、師匠……!」
「まったく、はぐれるとはね。人が多いから気をつけろと言っただろう」
「す、すみません…。あの、師匠、これは……」
結は瓶を差し出した。楓はちらりとその中身を覗き込む。
「……記憶だろう。閉じ込められた断片さ。夜市ではたまに見るが、珍しい品には違いない」
「この中で……”楓くん“って呼ばれてたんです。師匠のこと、ですか?」
楓はほんの少し、眉を持ち上げた。
「さあ。楓なんて名前、いくらでもいるさ」
それだけを言うと、ひらりと袖を返して通りに戻っていく。
「そろそろ行こう。夜市に長居は無用だ」
「……はいっ」
結は瓶に目をやった。中の子供たちは、まだ手鞠を投げ合っていた。
それが誰の記憶なのか、本当に楓の過去なのか――結には分からない。だが、確かに何かが胸に引っかかった。
――楓くん、と名を呼ぶ、あの声が。
瓶は、風が吹いたように微かに揺れていた。




