影灯の宿
雨が降っていた。
しとしとと、やわらかいのに、冷たい雨。結は肩までしみ込んだ旅装を無言で絞りながら、ぽつりとつぶやいた。
「……師匠、また雨宿りもせずに、こんな山道を……」
「雨が降るからって立ち止まってたら、人生は乾かないよ」
前を行く男――楓は、相変わらずの調子で肩をすくめる。眼帯に華奢な身体、見た目は女性に近いのに、言葉の節々に俗っぽさがにじむ。
「ついておいで、そろそろ村が見える」
その言葉どおり、竹林を抜けた先に、小さな宿場町が顔を覗かせていた。夕闇の中、ぽつりぽつりと灯る提灯の光が、ぼやけてゆれている。
「……変ですね」
結は立ち止まる。
「灯りはついているのに、人の気配がまるでない」
「ま、よくあることさ」
楓は一歩先へ進み、村の境を軽く跨ぐ。
「妖怪でも、疫病でも、悪意でも。何かが“溜まってる”場所ってのは、空気でわかるもんだ」
結は二刀の柄に自然と手を添えた。
気配は――“沈黙”だ。それが何より怖い。
◇
村の真ん中、かつては旅籠だったと思われる建物に二人は腰を落ち着けた。空き家だが、雨を凌げるだけましだった。
「……あの、お団子、美味しそうでした」
結がぽつりと漏らす。乾かした布の下、手足をあたためながら。
「買えばよかったのに」
「買うような人、もういなかったじゃないですか」
「まあね」
楓はくつろぎながら、懐から小瓶を取り出す。
「雨宿りの酒。贅沢な時間だ」
「……師匠、昼から酒ですか?」
いつものやり取りだった。だがそのとき、ぴしゃりと戸が鳴る音がした。
結は即座に立ち上がり、刀を抜きかける。
楓も身を起こした。酒瓶を床にそっと置く。
「結、目を凝らして。……ここは、宿場“だった”だけの話だ。今は――」
戸が開いた。
外に立っていたのは、七、八歳の女の子だった。白装束に濡れ髪、足は裸足。顔は……笑っていた。
「お兄ちゃんたち、泊まりにきたの? じゃあ、あたしが案内するよ」
ぞわりと、結の背を冷気が這い上がった。
「……あなた、名前は?」
「あやめ、っていうの。じゃ、ついてきて?」
にこにこと手招きする少女。
だがその背後、地面に落ちた影が、少女と逆方向に動いていた。
「師匠、これは――」
「影灯だな」
楓が立ち上がる。
「昔話にある。宿に現れては、客を影だけに変える妖怪さ」
「成仏、しますか?」
「どうかな。でも――止めることはできる」
結は即座に二刀を抜いた。
◇
「お願い、遊ぼうよ」
あやめの影が、ずるりと地を這う。
もう少女の形ではない。まるで黒い人型の霧。目も鼻も口もなく、腕だけが異様に長い。
「なら――遊んであげます」
結は踏み込み、刃を十字に振るった。
斬撃は確かに影を裂いた。が、黒い霧はすぐにまた形を成す。
影の腕が鞭のように振り下ろされ、結の頬をかすめた。
「っ……この!」
再び斬り伏せ、今度は札を投げつける。
結が使える札は、動きを一時的に止めるだけ――それでも、一瞬の隙は作れる。
「師匠、今です!」
楓は軽やかに立ち、封印の札を一枚、指先でなぞった。自身の血で呪を描き、静かに唱える。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
札が黒い影の中心に吸い込まれるように貼りつく。
風が渦を巻き、影が音もなく消えた。
しんと、静まり返る宿場。
少女の姿も、影も、もうそこにはなかった。
◇
「……あの子、成仏したんでしょうか」
翌朝、村を出る直前。結はぽつりと呟いた。
「最後、笑ってました。……本当に、あれは妖怪だったんでしょうか」
「さあ、もとは幽霊だったのかもね?」
楓は空を見上げた。
「なににしろ、私たちが知る必要はないさ」
「……そう、ですね」
気持ちの良い風が、ふっと流れてきた。
「次の町には、ちゃんと団子のある宿がいいです」
結が呟く。
「あと、朝ごはんも」
楓は笑いながら荷を持ち、結の背をぽんと叩いた。
「さっさと起きれば、朝餉ぐらい作るさ。ほら、行くよ」
「……師匠の選択に任せます」
結の言葉に、楓はまた笑った。
ふたりは、朝靄の山道へと歩き出した。