槍の雨、風の影(後編)
◇
夜。
野営地に重く湿った空気が満ちていた。月は雲に隠れ、風は音もなく吹いていた。
「……気配が違います」
結が呟いた瞬間、森の方から微かな土音。続いて、矢の放たれる風切り音。
「来るぞ!」
楓の声が落ちたと同時に、敵の矢が闇を裂いて飛び込んできた。味方の兵たちがあわてて伏せる。
「夜襲かよ! 卑怯な……!」
「卑怯だろうが、勝ちゃあいいって連中だ」
重吉が呻くように言った。
「矢だけじゃねえ、槍兵も近づいてる……!」
敵は暗がりを縫うように、音を消して移動してくる。こちらの陣に気づかせぬよう、まさしく“影”のような動き。
「このまま迎え撃ったら、混乱して崩れます……!」
結が言いかけたその時、楓が立ち上がった。
「ならば、先に“混乱”を与えればいい。奴らが最も嫌がる形でね」
「……また裏の手を?」
「その通り。結――お前は森を回って敵の背後に回れ。火矢を二発、合図に使え」
「了解。…胃がキリキリするけど、了解!」
「文句はあとで聞こう」
結は森の中に消えた。
◇
闇の中での戦は、音と気配が命だ。
味方の兵たちは、火を消して音を殺し、じっと伏せていた。
「……なぁ、楓殿。敵が混乱するって、何を?」
重吉の問いに、楓はにやりと笑った。
「奴らは“計算”に忠実すぎる。だから、予測できぬことに脆い。戦場で最も不可解なものは、“兵ではない者が動くこと”だ」
「は?」
「つまり――“妖でも怪でもない、旅の女が背後から現れて城に火を放つ”など、想定外すぎるだろう?」
◇
そのとき、夜空を裂くように――火矢が一閃、森の向こうへ走った。
一発、二発。
「きたな」
楓が合図を送ると同時に、味方兵たちが跳ね起きる。
「よし、奴らの陣形は崩れた! 一気に押し返せ!」
「うぉぉぉ!」
重吉が先陣を切る。他の兵たちも次々と続いた。
敵の背後――確かに結が火を放ったらしい。煙が立ち、動揺した敵が指示を見失っている。
闇の中、兵たちの声と足音が交差する。
「俺らが主役ってのも、たまには悪くねぇな!」
「いいや、いつだって俺たちが主役だ!」
武器のぶつかる音、叫び、火の爆ぜる音。戦場が怒涛のように流れ出す。
その中で楓は、敵軍の後方に控えていた、ただ一人動かない男に目を止めた。
白い陣羽織に、目立たぬ作りの兜。
「……指揮官か。いや、“黒幕”か」
◇
一方、火を放った結は木陰から戦況を見つめていた。
「……よし、混乱してる。なら――」
刀を握り直す。そこに、槍を持った敵兵数名が気づいた。
「おい、あれ女だぞ!」
「後ろから火を放ったのか……!」
「――来いっ!」
結は叫び、飛び込んだ。
間合いの狭い森の中では、長い槍は扱いにくい。そこを狙って、片刀で足元を払う。
一人、二人、三人――
「って、ちょっと多くないです!?」
敵兵はさらに増えていた。包囲されかけたそのとき――
「夜目の利く者を選りすぐったつもりだったが、案外頼りないな」
冷静な声が、背後から響いた。
現れたのは、あの白い陣羽織の男。
結は反射的に刀を構える。
「誰だ…?」
「名乗るほどの者ではない。だが――お前たちが動けば、戦の形は崩れる。だから、ここで斬る」
「…なら、容赦しませんよ」
一歩踏み込んだ瞬間、その男は楓の放った小刀をかわす。
「後ろばかり見ていると、足元をすくわれるぞ」
「……お前が“設計者”か。戦を囲碁の盤に乗せる者」
「いや、“ただの仕掛け人”だ」
そう言い、男は結に再び斬りかかる――が、その動きは不自然に遅い。
「……あれ?」
「悪いな」
楓が微笑む。
「その刀には私の札を仕込んでおいた。多少の力の封じは効くだろう?」
「……小癪な」
男はその場に崩れ落ちた。
「終わり、ですね……?」
「いや。今夜の“設計者”は倒したが、戦自体の決着は、まだだ」
◇
翌朝。
敵軍は混乱の末、夜明けとともに撤退を開始。味方軍の士気は高まり、反撃に転じる気配が満ちていた。
重吉が駆け寄ってきた。
「お二人とも、本当にありがとう……! これで俺たちの城は守れそうだ!」
「戦の本当の勝者は、お前たちだ。私たちは少し影を揺らしただけさ」
楓の言葉に、結も笑った。
「胃薬、三袋ぶんは飲みましたけどね」
「それはまた別の話だな」
「全然別じゃないですよ!!」
二人の掛け合いに、重吉たちは笑い声をあげた。
日が昇り、戦の地に新しい朝が訪れていた。




