寺子屋と小さな守護様
「なんで私が、こんな……っ」
床に投げ出された硯。墨まみれの子供たち。おまけに犬が一匹、筆をくわえて逃げ回っている。
その混沌の中心で、結は顔を引きつらせていた。
「せ、せんせー! この子がオラの背中に“鬼”って書いたー!」
「違うよ結先生、これ“焼きそば”って書いてる!」
「もっとダメだろ!」
結はぐしゃっと頭を抱えた。
寺子屋──それは戦場よりも過酷な場所だった。
◇
「で、あっちはあっちで何してるんですか……」
結がふと窓の外を見ると、楓はのんびりと縁側に腰を下ろし、年配の男と茶をすすっていた。
実に優雅である。
「師匠! 交代してください! 私もう限界! 魂が抜けそうです!」
「ほう、もう抜けそうか。では魂ごとそのまま教材に……」
「やめろォ!」
◇
「……ということでしてな」
茶を注ぎながら語る男は、この寺子屋を兼ねる寺の住職であり、村の学園長でもある。
名を「玄海」という。
「この村では昔から、“守護さま”という存在をお祀りしとります。
洪水も疫病も防ぎ、村を守ってくださる。だが……その代償として、年に一度、子を一人差し出さねばならんのです」
「……随分と重い“伝統”ですね」
楓は茶をくるくる回す。
「それがなければ、あの子らが健やかに育つと思えば、誰も声を上げられなかった……。
じゃが、もう限界じゃ。子供は減る一方。
“守護さま”を怒らせずに、儀式を終わらせる術はないものか」
◇
放課後(?)を終えた結は、絞りきった雑巾のような顔で戻ってきた。
「……つ、疲れました」
「良い顔になったな。ちょうどいい。これから“守護さま”に会いに行こう」
「……私、まだ“守護さま”よりも“胃薬さま”に会いたいんですけど……」
◇
守護が祀られているという山の祠は、まるで観光名所のように花が供えられ、小綺麗に整えられていた。
鳥居の奥、小さな祠の前で立ち止まる。
「ここが……“守護さま”?」
「そう。では、結。挨拶してこい」
「え、ええ……?」
しぶしぶ進んだ結が、祠の扉をそっと開けた、その瞬間。
「こんにちはっ!」
ぱた、と何かが飛び出してきた。
真っ白な肌、黒髪のおかっぱ、そしてパッチリとした瞳の──小さな女の子だった。
「わあ、訪問者さんだ! 久しぶりの人間! しかも若い! 可愛い! お姉さん、名前なぁに?」
「……えっと、結です」
「けつちゃんっ!」
「ちがう! 結っ! 『むすぶ』って書いて『ゆい』!」
「じゃあ“ゆっちー”ね! ゆっちーと呼ぼう! よろしくっ!」
テンションMAXの少女に押され、結は圧倒されながら後退った。
「ちょ、ちょっと楓! この子が“守護さま”って……」
「ああ、そうだ」
「……どう見てもただの元気な子供なんですけど!」
楓は静かに答えた。
「彼女の過去と関係あるのかもね?…教えてくれるかい?
◇
その夜、楓と結は“守護さま”──少女の名は「ミオ」といった──から、彼女の過去を聞いた。
「……私、昔はこの村の子だったんだよ」
ミオは夜風に揺れる灯籠の明かりを見つめながら、ぽつりぽつりと語り出す。
「家も小さくて、貧しくて……でも、それでも幸せだった。お母さんとお父さんと、一緒に暮らしてた。ある日、村に妖が現れてね。みんな逃げようとしたんだけど、あたし……足がすくんじゃって……」
声がかすれる。
「目の前で、食べられたの。お父さんも、お母さんも。ぐちゃって。目を背けたのに、音が、匂いが……全部、焼きついちゃった」
結は何も言えず、ただ膝に手を置いたまま、拳を握りしめた。
「その時、何かがあたしに言ったの。“怖かったね”“助けてあげるよ”って。あたしは、あたしの心を差し出した。……それで、楽になれると思ったんだ」
楓の瞳が静かに揺れる。
「その“何か”が、君に憑いた」
「うん。それが、“守護さま”の始まり……。妖は言ったの。“祀られなさい。恐れられなさい。そうすれば、もう誰にも見捨てられない”って」
そして、ミオの口元が歪む。
「それから毎年、子供をひとり差し出す儀式が始まった。“守護のため”って言い訳つきで。でもね、本当は違う。“見捨てられるくらいなら、捧げさせてやる”……妖の声が、あたしの中でずっと……」
ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
「もう、誰も傷つけたくないのに……! やめたいのに、でも、でも……!」
その瞬間だった。結がそっと立ち上がり、ミオに手を差し伸べた。
「……なら、一緒に止めよう。こんなの、間違ってるよ。あなたの中に、まだ“やめたい”って気持ちが残ってるなら──きっと、大丈夫」
小さな手を、結の手が包もうとする。
しかし。
「来ないで!!」
ビシィッ!!
空気がはじけ、突風のような力が放たれた。結の身体が後方へ弾かれる。
「っく……!?」
ミオの顔は、もはや先ほどの“少女”ではなかった。
黒く濁った目。口元には人間の皮を剥ぐような薄笑い。禍々しい気配が、辺りの空間そのものを凍らせる。
「──ああ、“優しい手”はもう要らない。“見捨てられるくらいなら、全部壊せばいい”って、そう言ったの、あの時も」
「……お前、もう“お前”じゃないな」
楓の声が、鋭く切り込んだ。
結の前に立つ。
「後ろに下がれ、結。これは、もう祈りでも涙でも届かん存在だ」
ミオ──いや、その中に棲む妖は、ひくひくと笑った。
「ふふ……ふ、あはは……“封”なんてできるもんならやってみなよ、“術師さん”……!」
楓は袖から符を一枚、ゆるりと取り出す。
「天地を裂くは我が意──」
妖の咆哮が、森を揺らす。
「四象を鎮めるはこの符──」
空間に亀裂のような影が走る。
「──封!!」
符が飛び、光が爆ぜた。
ミオの身体から闇が噴き上がる。風がうねり、草木が軋む。だがその中心で、ミオの潤んだ瞳だけが、わずかに揺れていた。
◇
「……封は完了した。もう、誰かを呪うことも、誰かに呪われることもない」
楓は静かに呟いた。
「ミオは、どうなったんでしょう?彼女の意思は、結局…」
「少なくとも、この世にはいない。…そう落ち込むな」
「……でも、両親のそんな姿を見て、それでいてあの子は唆されて。こんなの…」
「過去は過去だ。よくあること、で片付いてしまうんだよ、そういうのはね。君が引きずっていてもしょうがない。
寺子屋の子たちに会ってから、お暇しよう」
「…はい」
結は静かに願った。
どうか、ミオが両親に会えていますように。
今いる子供たちが、健やかに生きれますように。




