波間に笑う男(後編)
◇
朝焼けの中、海は静けさを取り戻していた――ように見えた。
だが、桟橋に立つ楓の耳に、確かに届いていた。
潮の奥底から響いてくる、得体の知れぬ呻き声。
それは言葉にならない悲しみの残響だった。
「……来るな。準備は?」
「万全です。札も、刀も」
結は背筋を正し、海を睨みつける。
隼はその隣に立ち、手斧を構えていた。
「おいおい、俺まで戦力に数えられてんのか?」
「敵が水軍の縄張りを荒らしてる以上、あなたにも責任はあります」
結の言葉に、隼は肩をすくめる。
「鬼の弟子は口が厳しいな」
◇
海が、叫んだ。
黒い霧が膨れ上がり、海面を割って何かが現れる。
それは巨大な、魚とも虫ともつかぬ異形だった。
骨のように突き出た背びれ。
まばたき一つしない無数の目。
そして、空洞のように大きく開いた口から、ねっとりとした声が漏れる。
「……かえ……せ……」
「何を?」
楓の問いに、化け物は呻いた。
「……命……海の……供物を……かえせ……」
「供物?」
隼の顔が強張る。
「まさか……家族を?」
「……返せ……返せ……かえせェェェェエ!!」
異形の影が、怒りに任せて海を渦立たせる。
「来るぞ!」
楓の一声とともに、戦いが始まった。
◇
結は札を展開し、霧を裂くように突き進む。
海上に張り巡らされた結界の中、異形は身体をくねらせて襲いかかってくる。
「霧が濃すぎて動きが読めません!」
「なら、止めろ」
「はい!」
結は符を海に投げ入れる。
「水神、此処に在りし者の声を止めよ――封!」
爆ぜるように札が光り、異形の動きが鈍る。
「今だ、楓!」
楓の体が霧を切り裂いて躍り、抜刀とともに異形の目を斬る。
呻き声が海に響き渡り、波が荒れる。
「隼、今!」
「応!」
隼は海辺に設置した火矢の仕掛けを放つ。
火矢は舟に積んだ油樽へ――爆ぜた!
爆音と共に霧が一瞬、吹き飛ぶ。
楓が懐から、封印札を取り出す。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封!」
札が蒼く輝き、異形の体を覆う。
呻きが次第に消え、霧が海の底へ吸い込まれるように引いていく。
やがて、何もなかったかのように、海は静けさを取り戻した。
◇
しばらくして。
「……終わったな」
隼が桟橋に腰を下ろし、笑う。
「師匠、封印が決まりましたね」
「相当な力だった。これまで封じた中でも上位に入る。だが、まだ動機が腑に落ちん」
楓が目を細める。
異形は“供物”を返せと訴えていた。
海に命を捧げるような、かつての風習――。
「それが……家族を呑んだ“理由”ですか」
「たぶん、な。たとえ理不尽でも、“海”は理由を持っていることがある。……それでも、俺は信じたい」
隼が立ち上がる。
「海は、取り戻せる。信じれば、もう一度笑ってくれる」
その背中は、大波に向かってまっすぐだった。
「おい結。お前も、良い剣士になったな」
「え……」
「ま、楓の弟子にしては素直すぎる気もするがな!」
「……余計なお世話です!」
楓は小さく笑った。
「ま、お前はこのままでいい。どんな波が来ても、折れずに進め」
「……はい」
結は小さく頷いた。
◇
その夜、ふたたび浜にて。
「楓よ」
「ん?」
「いつか、お前が本気で“敵”になったら、そのときはどうすりゃいい?」
「そうだな……結を信じろ」
「おいおい、他人任せかよ」
「信じられるだろ、あいつは」
「……そうだな」
潮の音が静かに満ちていた。
やがて風が吹き、波間にひとつ、笑い声が重なる。




