波間に笑う男(前編)
「久しいなァ、楓!」
まばゆい陽光と潮風の中で、その男は満面の笑みを浮かべていた。
浅黒い肌に赤く日焼けした頬、力強い腕を組み、大きな声で笑う。
「この十年、消息もろくに寄越さねぇから、てっきり化け物にでも食われたかと!」
「私がそう簡単に食われると思うかい、隼」
楓は微笑を浮かべたまま、長旅の埃を払うように裾をはたいた。
その後ろには、複雑な顔をした結が立っていた。
「で、師匠。この人は……?」
「鷹津 隼。このあたりの水軍をまとめてる頭領だ。昔の知り合いでな、頼りにはなる」
「“頼りになる”って聞こえたぞ! 嬉しいじゃねえか!」
豪快な笑いが浜に響いた。
だがその目の奥には、ふとした影がよぎったことを、結は気づかないふりをした。
◇
隼に案内され、結と楓は海沿いの屋敷へと通された。
木の香りが残る建物の中は、干した魚の匂いと、ざんざんという波音に包まれていた。
「で、厄介ごとってのは?」
楓が腰を下ろすなり尋ねると、隼の顔が少し曇る。
「海に、変なもんが出てな。網が破かれ、倉庫が壊される。船も一隻、底から食われた」
「化け物、ですか」
結が身を乗り出すと、隼は頷いた。
「漁師のひとりが言ってた。“海に黒い影がうごめいていた”ってな。……目撃者は、それきり行方不明だ」
「妖の類でしょう。だが、気になるな。目撃して姿を消すほど、強い“意志”がある」
楓は腕を組んで考える。
ただの暴れ妖ではない。何かを狙っている可能性がある――。
◇
その夜、結はふと目を覚ました。
波の音がいつもより近い。潮のにおいが濃い。
「……ん?」
縁側から外を見やると、隼の姿があった。
海に向かって立ち、何かを呟いている。
「……?」
結がそっと近づくと、隼は気づいたように振り返り、笑った。
「起こしちまったか。悪いな、夜風が気持ちよくてさ」
「いえ……眠れなかっただけです」
しばし、ふたりで黙って波を見た。
月の光が波頭に揺れて、銀の鱗のようにきらめいていた。
「昔な、俺の家族もこの海で生きてたんだ。親父も、漁師でな」
「……」
「だけどある日、突然だった。海が“変わった”。あれは、海そのものが怒ってるようだった。舟は沈み、家族は帰らなかった。俺だけが、岸に打ち上げられて、生き残った」
「……」
「それ以来、俺は“海に愛された”んじゃなく、“海に見逃された”と思ってる。……それでも、海が嫌いになれなかった」
結は言葉を失った。
だが、その背に宿る想いは、彼女にも痛いほどわかる。
「楓もな、俺を生かした。理由も言わず、ただ“生きろ”って言ってくれた」
月明かりの中、隼の目がどこか遠くを見つめる。
「だから、俺は海を守る。何が出てこようと、な。……家族が帰ってこないってわかってても、それでも、海の美しさを信じたい」
「……隼さん」
「ん?」
「海を信じるあなたを、私は信じたいと思いました。だから、今回の件……ちゃんと、力になります」
そう告げると、隼は静かに笑った。
「頼もしいな。やっぱり、楓の弟子って感じがするぜ」
◇
そしてその翌日。
海は再び荒れた。
網が裂け、船が半壊。
海上に、うっすらと黒い霧のような影が現れた。
「……結、行けるか?」
「もちろんです」
楓と結は立ち上がる。
波間に蠢く異形を見据えながら。
「隼さん、私たちが終わらせます。この海を、取り戻しましょう」
その言葉に、隼は拳を握り、頷いた。
「頼んだぜ、“結ちゃん”」




