喋る掛け軸
――風もなく、雨もなく、静かに山が笑っていた。
結はそう表現した。この山寺に入ったときから、なにか妙な気配がしていた。凛と澄んだ空気に混ざる、違和感のような、くすぐったさのようなもの。笑っているようで、どこかぞわりと寒気がする。
「師匠。ここ、やっぱり変ですよ」
「ふむ。確かに、空気がぬるいね」
寺の門をくぐりながら、楓はいつものように飄々とした口調で言った。眼帯の奥の目が、何かを探っているのか、ふと一瞬黙る。
「けどまあ、夕餉にありつけるなら良いじゃないか」
「そういうこと言ってるから、いつも騒ぎになるんです」
◇
寺には、老僧がひとりだけ住んでいた。仏頂面だが悪い人ではない。むしろ話を聞く限り、困っているのはこの老僧の方だった。
「……で、喋るのですな」
「はい」
「掛け軸が?」
「はい」
結が思わず顔をしかめる。まるで冗談のような話だが、老僧の目は真剣だった。
「夜になると、床の間の掛け軸から声がする。最初は空耳かと思ったが……だんだん言葉になってきたのです」
「どんなことを?」
「……“腹が減った”、“喉が渇いた”、挙げ句の果てに“酒を持ってこい”と……」
「……あ、じゃあそれ、私のじゃない?」
「楓師匠のじゃないです」
結は素早く楓の袖を引っ張った。
「これ、ちゃんと調べます。封印が必要ならお願いします」
「おや、私の仕事が増えるのは歓迎しないけどね」
◇
夜。
床の間の前に結が正座し、楓はその横でごろりと横になる。老僧は怖いのか、隣室で震えている。
「……来ると思う?」
「妖の類なら、たぶん今頃こちらを伺ってる。……あ、でも喋る掛け軸だったら“無駄話妖”とかかな。どうする? 私が封印してもいいけど?」
「戦う前提で言わないでください」
「だって、暇だし。寝るには早い」
そのとき――。
「おい、そこの小娘。団子を持ってこい」
ふたりの間に、低くしゃがれた声が響いた。
「……団子?」
結は一瞬、口を開けたまま固まった。床の間に飾られた、墨絵の掛け軸。古びた松の絵の中、幹の陰に小さく“人影”のようなものが描かれているような、いないような。
「団子がないなら、酒でもいいぞ。あと、わしは足が冷えるのが嫌いだ」
「……師匠。どうします?」
「……まず突っ込んでいいかい。どうして妖が“足が冷える”とか言うんだろうね?」
楓はくすっと笑って起き上がると、床の間の掛け軸に近づいた。
「おやおや、これはこれは。なかなか風情のあるご隠居じゃないか。どちらのお生まれで?」
「拙者、かつてはこの寺の住職じゃった。だが、死んでからも居心地がよくてな。動きたくない」
「なるほど、引きこもり系の幽霊か……」
結は唖然としつつも、ほんの少しだけ親近感を覚えていた。朝起きるのがつらいのは、彼女も同じである。
◇
話を聞けば、この掛け軸の中に封じられているのは、かつてこの寺を守っていた老僧の魂だった。自分が死んだことに気づかず、そのまま掛け軸に取り憑き、日々を過ごしているらしい。
「なんというか……のんびりした妖というか、幽霊ですね」
「成仏しなかったのは未練じゃなくて、単なる怠惰だったわけか」
「お主ら、わしをバカにしておるな?」
掛け軸から怒ったような声が飛ぶ。
「いいえ、まさか。ただ、成仏してくれないと困るのですよ。ほら、寺の人も怖がってますし」
「うむ……それは心苦しい。だがわし、外は寒くてな……」
結は静かに立ち上がると、懐から小さな香炉を取り出した。白檀の香を焚く。
「この香り、覚えていませんか? 昔、お経を唱えるときに焚いていた香です」
しん……と、部屋の空気が静まる。
「……懐かしいな」
「あなたのこと、誰も忘れてませんよ」
その一言に、掛け軸の中の気配がふっと揺れた。
◇
その夜、掛け軸は静かに燃やされた。老僧の手で、感謝と祈りを込めて。
楓は遠くから見守っていたが、最後にこう言った。
「妖ってのは、強さや恨みだけじゃなくて、未練や日常にも宿るんだね」
「そうですね……。でも、団子で成仏しなかったのは残念です」
「いや、案外あと一串あれば未練晴らせたのかもよ?」
「……私の団子返してください」
「え、あれ君のだったの? いやー、美味しかったよ」
「師匠!!」
静かな山の夜、笑い声がこだました。




