死者の嫁入り
山間の村に足を踏み入れた瞬間、空気が妙に湿っていた。昼なのに霧が立ちこめ、どこか、土の匂いに混じって花の香りがする。
「妙な場所ですね。季節外れの桜の匂いがする」
結が鼻をひくつかせる。
「桜じゃないよ。死化粧に使う白粉と、花嫁の髪に添える匂い袋の香りだ」
楓がまっすぐ前を見ながら呟いた。
「死化粧……?」
「たぶん“嫁入り”なんだ。死んだ娘のね」
◇
村の長が語った話は、重たく、そしてどこか歪んでいた。
「五年ほど前に死んだ娘がおりましてな。“おかつ”という。村一番の器量よしで、年頃になると縁談も何度もあったんですが――」
そこで、長は言葉を濁した。
「…何かあったんですか?」
結が促すと、長はしぶしぶ口を開いた。
「…死んだ娘は、嫁ぐはずだった相手に裏切られ、村の掟で“穢れ”とされてしまったんです。腹に子を宿していたとも…言われましてな。で、そのまま川に身を投げて……」
「それが“死者の嫁入り”と、どう繋がるんです?」
「娘の死から一年後。――夜中に“花嫁衣装を着た死体”が村の家に現れました。男の元に、黙って立っていたと。以来、年に一度、その娘は“誰かを迎えに来る”ようになったんです」
「……“迎えに”?」
楓の声がわずかに低くなる。
「はい。今年は、うちの若い衆が一人、消えました。布団を残して……朝にはいなくなってたんです。窓に花びらが残ってました」
◇
その夜。
村の奥、かつて“おかつ”が身を投げたという川のほとりで、結は目を凝らしていた。
そのとき、ぽたりと白いものが落ちてくる。
「花びら……?いや、違う」
指でつまむと、それは絹布の切れ端だった。刺繍の花模様。婚礼衣装の一部。
「来る!」
静寂を裂いて、白無垢をまとった女が現れた。
その歩みはおぼつかず、けれど確かな意思があった。
「――あなた、誰を迎えに来たの?」
結が声をかけると、女は足を止めた。
顔は伏せたまま、しかしその肩が、ひく、と震えた。
「――わたしの婿を、さがしに」
「その人はもう、どこにもいないよ。あなたを裏切って、捨てたんでしょ?」
その言葉に、女の白無垢の裾が、風もないのにゆらりと揺れる。
「それでも、わたしは、嫁ぎたいの」
結が一歩後ずさる。
その時。
「嫁入りは祝うものであって、引きずってくるもんじゃないよ」
楓が現れ、静かに一枚の札を投げた。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符――封」
札が地に落ちると、四方に光が走る。
女の姿が、それに絡め取られるようにして消えかけた――が。
「ちょっと待って!」
結が叫んだ。
「今のは、ただ“嫁ぎたい”って気持ちだけだ。恨みや怒りじゃない。これは、たぶん誰かの願いが歪んで生まれたんだよ!」
「……ふむ。つまり?」
楓が封印の術式を解除する。
白無垢の女は再び姿を現したが、もはや襲う気配はない。ただ、その場に座り込み、絹布を胸元に抱いていた。
「“おかつ”が生前言ってたそうです。“誰にも祝ってもらえない花嫁には、死んでもなれない”って」
「誰かが、それを聞いてたのかもな。“祝ってあげたい”と願った誰かが。けれど、気持ちは強すぎると、妖になる」
結が女にそっと手を伸ばした。
「ここに、私たちがいます。“おかつさん”、おめでとうございます。ようやく嫁入りですね」
女の顔は見えなかった。けれど、どこかで――微かに、笑った気がした。
◇
朝日が昇るころ。
川のほとりに、白無垢の布が丁寧に畳まれて残されていた。香の匂いとともに、春がほんの少しだけ、早く訪れたようだった。
楓が言った。
「たまにあるんだよ。“願い”の形をした妖ってやつが」
「師匠はどう思いました?」
「花嫁のまま死ぬってのは、やっぱり無念だ。けれど、無念を“誰かが晴らしてあげよう”とした結果がこれだとしたら……それもまた、切ないね」
「それでも、今回は救えた気がします」
結は、白無垢の布を手に取り、そっと村の祠に供えた。
「おかつさん、どうか、幸せになってください」
「うん。……あとは団子だな」
「真面目な空気が台無しです!」
「それでも団子は食べたい。祝ってあげよう。死者の嫁入りと――私たちの胃袋に」
「はいはい、分かりましたよ」
春の香りと、白粉の名残が消える村の空に、鳥の声が静かに響いていた。




