夜に咲く声
淡い霞がかかる冬の道。咲き始めそうな山桜の蕾が寒さに身を寄せる中、二人の影が静かに歩いていた。
「師匠……昼からお酒はやめてください」
「昼じゃないよ。まだ午前だ」
「もっとダメです」
歩きながら包みを片手に、平然と酒を口にするのは、片目に眼帯をした華奢な男──楓。その後ろで、額に手を当てているのは三つ編みの少女──結。彼女の腰には二振りの刀が揺れている。
春の山道を抜け、今日の目的地へと向かっている最中だった。
依頼の内容は、「旧水無瀬屋敷で夜になると女の声が響く」というもの。
「“夜に咲く声”、か」
「……何それ。詩人の名前じゃないですよね?」
「幽霊の名前だよ。正体不明。だけど、声だけははっきり聞こえるんだって。花の匂いと一緒にね」
「……どんな匂いですか?」
「報告には“甘くて懐かしい香り”とあったよ。君が好きそうだ」
その言葉に、結は少しだけ眉を動かした。
彼女の好きな香り──それは金木犀の匂い。けれど、春には咲かない。
「季節外れですね。……余計に不気味です」
「だから、面白いんじゃないか」
(…この人、面白さだけで依頼選んでるんかな)
◇
旧水無瀬屋敷は、山裾にひっそりと建つ、朽ちた武家屋敷だった。
広い庭には、季節外れの金木犀が一本──それだけが不自然に、満開だった。
「咲いてる……冬に」
「おかしいね。これは妖気か、あるいは……」
「人の未練」
結は小さく呟く。
甘い香りが空気に満ちるたび、胸の奥が締めつけられるような感覚がした。姉の庭にも、金木犀はあった。子どもの頃の、忘れられない記憶。
「今日は一晩ここで過ごして、様子を見るよ。あ、団子もある」
「師匠……団子より準備です」
「団子も準備のうちだよ」
◇
夜。屋敷の中に灯りがともる頃、空気が変わった。
「……まって……」
「……うそ……だったの……」
庭から、女の声が響く。まるでどこかで花が咲くように、ひとつ、またひとつと声が増えていく。
「聞こえましたか」
「うん。結、気をつけて。斬ってはいけないよ。あれは“まだ死んでいない”」
「……また、それですか。師匠、もうちょっと詳しく……」
「今はまだ、観察だよ。ほら」
金木犀の木の下に、女が立っていた。
ぼんやりと霞のように浮かぶその姿は、着物を着た若い女。顔は笑っているようでいて、目が泣いている。何かを“待っている”表情だった。
「動きを止めます」
結は札を一枚取り出し、静かに印を結ぶ。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
札が光を放ち、女の姿へと吸い寄せられる。動きが止まり、声が途切れる。だが、霧のようにまた広がり、別の場所から同じ女の声が響いた。
「……ずっと、まってた……のに……」
「一時的に封じられるだけ。やっぱり、“幽霊”じゃないね」
「どういう意味ですか」
「これは、“体”がまだこの世にあるパターン。魂が浮かばれず、声だけが彷徨ってる。……つまり」
楓は指を庭の金木犀へ向けた。
「あの根元を掘ってごらん。何かある」
◇
結は木の下に膝をつき、土を掘った。すると、腐った木箱が現れた。
中には白骨化した女性の遺体。抱かれていたのは、男からの文──“必ず迎えに行く”と書かれた、破れた約束だった。
「待ってたんだ……ずっと。迎えに来るのを」
声が重なった。金木犀の香りと共に、女の幽霊が目の前に現れる。
「ずっと……待ってたのに……どうして……」
その様子は愛しい人も待っているいじらしい姿ではなく、
もはや執着に近かった。
結は札を再び手に取った。動きを止めようとするが──やめた。
代わりに、そっと手を合わせ、言った。
「もう、終わっていいんです。あなたは……待たなくていい。
約束は果たされなかったけど、あなたの想いは、今ここにあるから」
女の顔に、涙が落ちたような痕ができた。笑っていた口元が崩れ、哀しみがあふれる。
「ありがとう……」
そして、光のように、霧のように──金木犀の花びらとともに、消えていった。
◇
「……花の匂い、消えましたね」
「魂が帰ったからだよ。花も、もう必要なくなった」
「……好きな香りだったんです、金木犀。姉さんがね。思い出すと、胸が痛くなるくらい」
「忘れなくていい。痛みも、思い出も、全部君の中に残るから」
春が始まる風が吹いた。
結は小さく目を閉じた。風の中に、もう金木犀の匂いはなかった。でも──胸の奥に、静かに咲いていた。
「……師匠。団子、まだ残ってます?」
「あるよ。二つ。ひとつは私の。ひとつは君の」
「……なんで、ちょっと嬉しそうなんですか」
「嬉しいんだよ。君が、ちゃんと“見る”ようになってるから」
月明かりの下、二人の影は静かに並んでいた。