傘売りの声、響く町
ぱら、ぱら、と。
夕立が石畳を濡らす中、町の片隅で一人の男が傘を売っていた。
「ほらほら、おひとついかが。紙の傘より頑丈で、雨の音まで風情よく響く」
やけに艶のある声だった。着流し姿に、飾り気のない番傘。見た目は何の変哲もない商人――だが、男の目にはどこか人ならぬものが宿っているように見えた。
その町で雨が降るたび、奇妙な失踪が相次いでいた。
そして、そのたびに聞こえてくるのだ。
――「傘はいらんかね?」
◇
「ねえ師匠、この町、なんか変じゃないですか」
結が眉をひそめる。
町の人々は、どこか上の空だった。声も動きも鈍く、雨が降り始めても、傘も差さずに突っ立っている者すらいた。
「雨に呑まれてる感じだね」と、楓はぽつりと呟いた。
「呑まれるって、雨にですか?」
「昔から、“降り続く雨に心を食われる”って言い伝えがある。多くは妖絡みだけど、なかには本当に雨の精みたいなやつもいる」
「でも、人が消えてるんですよね?」
「うん。町の裏通りの古井戸、五人消えてるってさ」
「……絶対妖ですね」
「はは、鋭いじゃないか、結」
「バカにしてます?」
「ううん、誉めてる」
◇
結はその日のうちに、“傘売りの男”を見つけた。
町はずれの細道で、小さな少女に傘を差し出していた。
「これで雨が止んだら、返しにおいで」
男の声は妙に優しかったが、傘の骨が青く光るのを結は見逃さなかった。
「師匠、あれ……」
「見てきなさい。すぐ斬ろうとしない。話を聞いてからでも遅くはないよ」
「わかってますって……!」
◇
結が男の元に近づくと、男はふと結に視線を向けた。
「お嬢さん、傘はいらんかね?」
「持ってるので大丈夫です」
「ああ、それはつまらん」
「……でも、売ってる傘、ちょっと変ですよね」
「ほう、変だと?」
「骨が光ってました。普通の傘ならそんなことないでしょ?」
男はふっと笑った。
「なるほど。お前はあの化け物の弟子か」
「……?」
男の目が、深く、紅く染まっていく。
「まさかあれが、弟子をとるとはな。ずいぶんと気まぐれなことを」
「……あなた、師匠のことを知ってるんですか」
「知ってるさ。知ってるとも。“彼“が何をしたかも、どこから来たかも。何を失ったかも」
「……」
「だが、教えはしない。お前が“全部”知った時、その刃がどこに向くのか、私も見てみたい」
その瞬間、空が弾けるように雷鳴を轟かせ、男の姿が闇に変じた。雨が、町に本格的に降り始める。
◇
結は腰から札を抜き、空へ投げた。
「動きを止める――!」
札が空中で光を放ち、男の影の動きが一瞬止まる。
結が斬りかかろうとしたその瞬間、楓の声が飛んだ。
「止めなさい」
ぴたりと動きを止めた結が、苛立ちを込めて振り返る。
「なんでですか!」
楓は雨の中を悠々と歩きながら、男の傘の前に立った。
「この妖は、“まだ”選んでいるだけだ。喰ってはいない」
「でも、失踪者が……!」
「封じ込めてるんだよ。人の心を、傘にね」
結は目を見開いた。
「……じゃあ、あの傘、全部……」
「そう。取り憑かれた人間の“迷い”が具現化したものだろう。喰われる直前で止まってる」
楓は扇子で軽く男の顔を仰いだ。
「お前、随分と器用な真似をするじゃないか。心でも集めてるのか?」
「人の“空白”を喰うのさ。喰らうより、眺めていた方が心が安らぐ。……それじゃいけないのかい?」
「構わないよ。ただし――迷ったままの人を巻き込むのは、ちょっと趣味が悪いな」
楓が懐から、ふわりと光る符を取り出した。だがそれは封印の呪ではなく、祈りのような“還し符”だった。
男の影がしゅうっと小さくなり、傘の骨がぱきりと折れる。
「……風情が、なくなるな」
そう呟き、男の姿は霧の中に消えた。
◇
その夜、結と楓は町の屋根の上にいた。
「師匠……あの妖、あなたのこと“化け物”って……」
「珍しい話じゃない。そう言ったやつは他にもいる」
「でも、あなた、怒らなかった」
「怒るだけの余裕がないだけさ。……“怒る”ってのは、誰かを守る時に使うもんだろう?」
結は黙って団子を差し出した。
「食べます?」
「うん」
珍しく素直に手を伸ばした楓が、ぽつりと言った。
「結、少しずつ“見える”ようになってきたね」
「え?」
「妖の心。雨の匂い。……そして、“嘘”の匂いも」
「誰の嘘ですか?」
「さあね」
二人の影が月明かりの下で揺れた。
そして結の中には、ほんのわずかに芽生えた疑問が、静かに根を張っていくのだった。




