火峠の幻
山を抜ける風が、湿った霧を巻き上げていた。
木々の隙間から差す朝の光も、ここでは白く濁っている。名を「火峠」というこの山道は、近ごろ“得体の知れないもの”が出ると噂されていた。
「……なんで、わざわざ朝霧の中なんですか。眠いんですけど」
三つ編みの少女・結が、欠伸をかみ殺しながらぼやく。腰には大小二振りの刀。その目は眠たげだが、足取りは軽い。
「霧の濃い朝に出るって話だったろ? ほら、こういうのは現場で肌で感じてナンボ」
前を行くのは、眼帯の男・楓。華奢な体躯に酒瓶を提げ、のんびりとした足取り。
「それ、いつも私に言ってません?」
「教育方針だから」
「……」
結が呆れたように肩をすくめたとき、目の前の霧がわずかに割れ、道の先に古びた茶屋が姿を現した。茅葺き屋根には苔が生え、柱は歪み、だがかすかに香ばしい団子の匂いが漂っている。
「火峠の茶屋、ってここですか……妙に静かですね」
「……いや、音が“ない”んだ。風も鳥も黙ってる。来てるな」
楓が目を細めた瞬間、茶屋の縁側に座る老婆が見えた。団子を手に持ったまま、硬直したように動かない。目は虚ろで、口元には微かな笑み――生きているのが不思議なほどだった。
「……師匠、あれ……」
「封じられてる。魂も意識も、な」
楓は袖をまくると、小刀で自らの手のひらを切る。指先で血をすくい、空中に符を描きながら唱える。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
朱の文字が浮かび上がり、老婆の額へと吸い込まれる。すると、老婆の体から黒い靄のようなものが噴き出し、宙に女の形を作った。
ぼろぼろの白装束に狐面をかぶったその姿が、甲高く笑いながら霧の中へ溶けていく。
「成仏したんじゃ……」
「いや、逃げた。強い執着があるな。簡単には消えない」
楓は刀を拭うと、結のほうを振り返った。
「さて、どうする? ここで帰るか、囮になるか」
「……どうせ囮やらされるんですよね。分かってます」
結はため息混じりに懐から札を取り出しながら、茶屋の裏へと回っていった。
◇
静寂が、より深く降りていた。
結は茶屋の裏手に腰を下ろし、もらった団子を手にぼんやりと座っていた。霧はさらに濃くなり、視界は数歩先までしかきかない。
(……ほんとに来るのかな)
そう思った矢先、耳元で、囁くような声がした。
「……団子……おいで……あの子に、似てる……」
ぴたり、と結の背筋が凍る。振り向いたそこに――いた。
狐面をかぶった女。肩まで垂れた白髪、裂けた口元に微笑。瞳の奥には、飢えと怨みと、狂気が渦巻いていた。
「……お前、私を……見捨てたんだろ……団子……よこせ……」
「知らないわよ、あんたのことなんか!」
即座に札を投げる。光がはじけ、女の動きが一瞬止まる。その隙に、結は地を蹴って跳び上がり、刃を振るった。
「やっ!」
鋭い斬撃。だが女の体は、霧のようにふわりと消えた。
直後、背後からざらりとした気配。
「うしろ、甘いっ!」
「――っ!」
楓の声が響き、結が振り返るよりも早く、狐女の爪が迫る。とっさに刀で受け止め、もう一枚の札を額へ叩きつけた。
「動きなさいっ!」
光が女を包み、身体が固まる。そこへ、楓が再び血で印を描き、声を放つ。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
狐面の女が苦悶の声を上げ、やがて白い光となって消えていった。
その場には、ただひとつ、古びた狐面だけが残された。
◇
「……終わりましたね」
結が息を吐いて腰を落とす。楓はその隣に座り込み、酒瓶を取り出した。
「無念と飢えが重なると、こうなる。昔、飢え死にした女の妖だったんだろう。……だがまあ、斬れてよかった」
「……団子、美味しかったですよ。怖いのに、味はしっかりしてて」
「褒め言葉だな。じゃあ、今日の報酬は?」
「団子三本と、昼まで寝る権利です」
「はいはい。了解了解」
二人の会話が霧の中に溶けていく。
火峠の霧はようやく晴れ始めていた。




