夜の鴉
雨の匂いがした。
とある城下町。石畳にぽつぽつと黒い染みが浮かびはじめた夕暮れ、傘も差さずに歩く結は、なんとも言えない不快感に眉を寄せていた。
「……なんだろう。妙に、背中が寒い」
「おやおや。第六感が働くお年頃かな」
楓は涼しい顔で、薄手の外套の裾を払って歩いている。空は重く、空気には湿った鈍さがあった。
「師匠、なんで今日に限って宿じゃなくて“長屋”に泊まるんですか。あんなボロ……あんな風情ある建物」
「風情ある、ね。いやあ、今日の依頼主がどうにも気になる人でね。“一晩見張ってほしい”って言われたら、断れないでしょう?」
「……報酬は?」
「三文と温かい茶一杯」
「やってられません」
◇
長屋は町外れにあった。二階建てだが、今は住んでいる者は誰もいない。依頼主は「最近、夜になると屋根の上に“何か”が現れる」と言っていた。
──“鴉のような影が、人を見下ろしている”と。
人を襲ったりする様子はないが、夜な夜な現れては屋根の上でこちらをじっと見てくるのだという。
「……じゃあ、屋根の上に登ってみましょうか」
「雨だし、滑るよ?」
「師匠が下で見ててくれれば、落ちても助けられる気がします」
「わあ、重いなあ君」
そう言いながらも、楓は長屋の外に腰を下ろし、扇子を開いて空を見上げた。結は身軽に長屋の外壁を登り、濡れた瓦に足をかけていく。
◇
夜が来た。
月は雲に隠れ、雨も止んでいたが、辺りは深く静まり返っている。虫の声さえしない。
結が屋根の上で気配をうかがっていたその時、ふと、背後で瓦がきしんだ。
「……!」
振り向いた瞬間、黒い何かが、屋根の端に立っていた。
それは確かに“鴉”に見えた。だが、大きさは人ほどもあり、頭部は鳥で、胴体は瘦せこけた人間のように見える。
「妖……!」
結が腰の小太刀に手をかけた時、鴉のような影は声を発した。
「……あの赤き眼の子は……まだ、生きていたか……」
瞬間、結の動きが止まった。
「…赤き眼…?」
鴉の影は答えなかった。ただ、風のように姿を掻き消し、次の瞬間には長屋の裏手へと飛び降りていた。
「逃がしません!」
結も後を追って跳び下りる。地面に転がるように着地し、影の進んだ方向へ駆け出す。
◇
だがそのとき、結の目の前にひらりと扇子が投げ出された。目の前をふさぐように。
「……師匠! なんで…」
「だめ。今のは、追わない方がいい」
「どうしてですか! あいつ、“赤い目の子”って……」
結の語気が鋭くなる。だが楓は、微笑のまま動かなかった。
「さあね。赤い目なんて、いくらでもいるよ。もしかして、自分のことだと思ったの?」
「……っ、違います。でも……」
「私の目も赤いかもしれないよ」
「ふざけないでください!」
結が叫んだ瞬間、風が吹き、雨上がりの空気がざらりと肌を撫でた。
◇
その夜、鴉の影は二度と現れなかった。
長屋の住人は「不思議と安心した」とだけ言い、報酬として熱い茶と米団子を渡してきた。結は納得のいかない顔のまま、それを受け取った。
「…師匠、その、何か隠していますか?」
「さあねえ。僕はただの封術師だよ」
「……」
結は視線を落としたまま、団子をかじる。その背中に、楓はいつもと変わらない声で言った。
「結。怖がらなくていい。守ってあげるから」
「……何からですか?」
「それは、いつか教えてあげるよ」
◇
月が顔を出した。
夜空の下、長屋の瓦の上にはもう誰もいない。ただ、黒い羽根のようなものが、一枚だけ、風に舞っていた。




