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室町異聞  作者: 辻桃
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夜の鴉

雨の匂いがした。


とある城下町。石畳にぽつぽつと黒い染みが浮かびはじめた夕暮れ、傘も差さずに歩く結は、なんとも言えない不快感に眉を寄せていた。


「……なんだろう。妙に、背中が寒い」


「おやおや。第六感が働くお年頃かな」


楓は涼しい顔で、薄手の外套の裾を払って歩いている。空は重く、空気には湿った鈍さがあった。


「師匠、なんで今日に限って宿じゃなくて“長屋”に泊まるんですか。あんなボロ……あんな風情ある建物」


「風情ある、ね。いやあ、今日の依頼主がどうにも気になる人でね。“一晩見張ってほしい”って言われたら、断れないでしょう?」


「……報酬は?」


「三文と温かい茶一杯」


「やってられません」



長屋は町外れにあった。二階建てだが、今は住んでいる者は誰もいない。依頼主は「最近、夜になると屋根の上に“何か”が現れる」と言っていた。


──“鴉のような影が、人を見下ろしている”と。


人を襲ったりする様子はないが、夜な夜な現れては屋根の上でこちらをじっと見てくるのだという。


「……じゃあ、屋根の上に登ってみましょうか」


「雨だし、滑るよ?」


「師匠が下で見ててくれれば、落ちても助けられる気がします」


「わあ、重いなあ君」


そう言いながらも、楓は長屋の外に腰を下ろし、扇子を開いて空を見上げた。結は身軽に長屋の外壁を登り、濡れた瓦に足をかけていく。



夜が来た。


月は雲に隠れ、雨も止んでいたが、辺りは深く静まり返っている。虫の声さえしない。


結が屋根の上で気配をうかがっていたその時、ふと、背後で瓦がきしんだ。


「……!」


振り向いた瞬間、黒い何かが、屋根の端に立っていた。


それは確かに“鴉”に見えた。だが、大きさは人ほどもあり、頭部は鳥で、胴体は瘦せこけた人間のように見える。


「妖……!」


結が腰の小太刀に手をかけた時、鴉のような影は声を発した。


「……あの赤き眼の子は……まだ、生きていたか……」


瞬間、結の動きが止まった。


「…赤き眼…?」


鴉の影は答えなかった。ただ、風のように姿を掻き消し、次の瞬間には長屋の裏手へと飛び降りていた。


「逃がしません!」


結も後を追って跳び下りる。地面に転がるように着地し、影の進んだ方向へ駆け出す。



だがそのとき、結の目の前にひらりと扇子が投げ出された。目の前をふさぐように。


「……師匠! なんで…」


「だめ。今のは、追わない方がいい」


「どうしてですか! あいつ、“赤い目の子”って……」


結の語気が鋭くなる。だが楓は、微笑のまま動かなかった。


「さあね。赤い目なんて、いくらでもいるよ。もしかして、自分のことだと思ったの?」


「……っ、違います。でも……」


「私の目も赤いかもしれないよ」


「ふざけないでください!」


結が叫んだ瞬間、風が吹き、雨上がりの空気がざらりと肌を撫でた。



その夜、鴉の影は二度と現れなかった。


長屋の住人は「不思議と安心した」とだけ言い、報酬として熱い茶と米団子を渡してきた。結は納得のいかない顔のまま、それを受け取った。


「…師匠、その、何か隠していますか?」


「さあねえ。僕はただの封術師だよ」


「……」


結は視線を落としたまま、団子をかじる。その背中に、楓はいつもと変わらない声で言った。


「結。怖がらなくていい。守ってあげるから」


「……何からですか?」


「それは、いつか教えてあげるよ」



月が顔を出した。


夜空の下、長屋の瓦の上にはもう誰もいない。ただ、黒い羽根のようなものが、一枚だけ、風に舞っていた。


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