鏡の中の声
近江の町・葛野。城下の片隅にある古い屋敷で、“鏡を見た者が声を失う”という怪異が起きていた。
「一夜にして三人、言葉を喪ったそうです」
そう告げられたのは、旅の途中、町役人の依頼を受けた結と楓である。
結は、三つ編みを揺らしながら首を傾げた。
「鏡に、声を奪われた……?」
「その三人はいずれも飯嶋家の旧邸に出入りしていた者だ」と役人は言う。「屋敷には今も数十枚の古鏡が残っており、最後に見たのはそのうちの一枚だった、と」
「声を封じるとは、なかなか高等な術だな」
楓は扇を軽く振りながら微笑した。
飯嶋家――かつて鏡磨きで名を馳せた名家だが、今は空き屋同然。
そこに、何かが“宿っている”ということか。
◇
屋敷に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
湿った埃の匂い。だがそれよりも、背筋にじんわりと伝わる冷気があった。
結は無言で腰の刀をそっと撫でた。
屋敷の奥、仏間を抜けた先の一室が、件の“鏡の間”だった。
壁には大小合わせて三十枚を超える鏡。
どれも古く、枠には時代の風が刻まれていた。
その中の一枚、大きな立鏡に結は足を止めた。
「……師匠、この鏡……妙です」
鏡に映る自分の姿――その背後が、映っていなかった。
背景が抜け落ちたように、ただの闇が広がっている。
楓は鏡に近づき、眼帯の下の片目でじっと見つめる。
「映るものを、喰っている……これは“虚像喰い”の術式だな」
「じゃあ、この鏡が声も?」
「可能性は高い。声も、姿も、“像”だ。
この鏡は見たものを少しずつ取り込み、写し身を作っているのかもしれない」
◇
その晩、二人は屋敷に泊まることにした。
楓は仏間に結界を張り、結が見張りにつく。
深夜。微かな鈴の音。
鏡の間の奥から、金属の震えるような音がした。
結が駆けつけると、一枚の鏡が微かに揺れていた。
そしてそこに、映ってはならぬものがあった。
――女の横顔。
屋敷に女などいない。だが、その顔は鏡の中でゆっくりと口を動かしていた。
「……たすけて……こえを……かえして……」
声はない。だが口の動きがはっきりと“言葉”を示していた。
それは、鏡の中に“誰かの意志”が残っている証だった。
◇
翌朝、結と楓は町の古老を訪ねた。
「飯嶋の家の娘さんの話か……あの子は、鏡に話しかける癖があってな」
老爺は目を細めた。「最後には、自分の声を鏡に奪われたんだと。
気がつけば、自分の姿すら鏡に映らなくなって……それっきりじゃ」
屋敷の鏡に、“誰かの声”が閉じ込められている。
ただの怪異ではなく、長い年月の中で“声の記憶”が妖へと変わったのだ。
◇
再び夜が来た。
今度は、結が鏡の前に立ち、声ではなく“意志”で呼びかけた。
「あなたは……何者ですか」
鏡の中、再び女の顔が浮かぶ。
「私は……私の声は、誰にも届かなかった……
話しても、呼んでも、誰も答えない……
だから、私の声はここに残ったの……」
女の瞳は静かに潤んでいた。
それは妖の目ではなく、孤独な人間の目だった。
結は静かに言った。
「あなたの声、今は私に届いています」
その言葉に、鏡の中の女がふいにこちらを見た。
――瞬間、鏡の表面が波打つ。
女の顔が笑ったかと思うと、何かがこちらに飛びかかってくるような錯覚があった。
楓はすでに封札を構えていた。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封!」
札が燃え上がり、鏡に吸い込まれるように貼りついた。
光が走り、女の姿はゆっくりと消えていった。
鏡は、沈黙を取り戻す。
◇
それから、町で声を失った者たちは、数日を経て言葉を取り戻した。
飯嶋家の旧邸はその後、仏師の手で祠へと作り替えられ、鏡は一枚を残して全て埋められた。
結はその最後の鏡の裏に、かすれた文字を見つけた。
「声が届かないなら、せめて残したい」
それは、鏡に語り続けた女の、最後の願いだったのかもしれない。
◇
帰路、楓がふと口を開いた。
「声を奪う妖なんて珍しい。
でも本当に怖いのは、“誰にも聞かれない”ことなんだろうね」
結は頷いた。
「誰にも届かない声は、どこに行くんでしょう」
「……鏡の奥に落ちて、やがて人の姿をした妖になる」
「それでも、聞いてくれる人がいれば……」
「そう。封印ではなく、言葉を返すことができる」
結は空を見上げた。
淡い月が、夜の雲に滲んでいた。




