獣の眼を持つ子
ある秋の日。
楓と結は、近江の山あいにある宇佐布村を訪れていた。
依頼の内容は「子どもの目が獣のようになり、人を噛んだ」というもの。
加えて、夜中に人の気配のない家から動物のようなうなり声が聞こえる、と村人たちは怯えていた。
「“獣の眼を持つ子”……なんとも不穏だね」
「師匠。噛んだ相手の腕がただれているそうです。妖の仕業と見てよいかと」
「噛まれた者が正気を失うようなら、確かに妖の類いだな。
ただの病なら、私たちの出る幕じゃない」
◇
問題の子は、沙月と呼ばれる少女。齢十。
噛みついた相手は村の若者で、彼女が急に叫びながら飛びかかったという。
だが、沙月本人はまるで覚えておらず、普段は物静かで礼儀正しい。
「……あの夜、目が覚めたら、腕に血がついていたんです」
沙月は俯いて言った。「私じゃない……って思ったけど、でも爪の中に泥があって……」
結はそっと尋ねた。「夢を見ましたか?」
沙月は、うなずいた。
「夢の中で、私は真っ暗な森にいて、
“赤い目をした何か”が、私に入ってこようとしていた」
◇
楓は村の古老に話を聞いた。
「昔この村には、“獣に取り憑かれた子”を山へ捨てる風習があった。
だがそれは百年前に廃れたはず……」
「何か遺跡か、祠のようなものはありますか?」
「……“落し岩”の下に、封じの杭が打たれておる。
近づくと耳鳴りがする。あそこには、誰も寄らぬ」
◇
夜。
沙月の家の周囲を警戒していた結は、不意に冷たい風とともに異様な気配を感じた。
「来る……」
草むらから、這い出るように黒い影が現れた。
それは子供ほどの背丈、だが腕は細長く、背は猫のように曲がっている。
眼だけが異様に赤く光り、どこか哀しげでもあった。
「オレハ、ヒトノ、ナカ……」
声は獣のうなり声に混じり、言葉の形をとっていた。
結が札を放つと、影は一瞬で霧散し、家の屋根に逃れた。
中から、沙月のうめき声が聞こえる。
駆け込むと、沙月は震えながらこう言った。
「……また来た。“中に入れて”って言ってた……」
◇
翌朝。
楓と結は“落し岩”を訪れた。
その下には、古びた杭と、獣の骨と思しきものが埋まっていた。
その杭に刻まれていたのは、“双眼封”という古い術式。
「これは……“目を通して憑く”妖だ。獣の霊ではなく、“視線”そのものが媒介」
楓が言った。「誰かがこの岩の下に“見たものすべてを喰う妖”を封じた。
それが、沙月の眼を通して少しずつ漏れ出したんだ」
「じゃあ……沙月は“見てしまった”から、繋がった……?」
「おそらく、落し岩に近づいたことがあるんだろう。
目は魂の入口。その子の心の中に、妖が触れてしまった」
◇
再び夜。
楓と結は、沙月の部屋に結界を張り、妖を待った。
そして――現れた。
今度は、完全な形をとった獣の妖。
犬とも猫とも言えぬ、二足歩行のしなやかな影。
だが、その眼だけは、人間のそれだった。
「オレハ、ナカニ……」
「沙月ちゃんの中に入ろうとするな……!」
結が刀を抜き、跳躍した。
刃が妖の首を裂く――が、霧のように消え、背後からまた出現する。
「斬れない……!」
「これは“視線”そのものだから、物理では切れん。
結、見つめ返すな。“視られる”ことで中に入られる」
「でも、師匠……あの子の心の中に入り込んでるなら……!」
結は覚悟を決め、沙月の目を真正面から見た。
そこには、もう一つの視線――赤い光が宿っていた。
「あなたは……なぜ、ここに?」
結が問いかけると、声が返ってきた。
「……殺された。追われて、埋められた……目を、奪われて……」
「殺された……?」
◇
楓が呪を唱えた。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
札が沙月の額に貼られ、赤い光が抜けるように、静かに消えた。
同時に、獣の妖の姿も、すっと空気に溶けるように消えていった。
それは、ただ“見つめてほしかっただけ”の存在だった。
◇
沙月の眼は、元に戻った。
「……もう、声は聞こえません」
結はほっと息をついた。
楓は落し岩の封印を改めて強め、村に“祠として祀るよう”伝えた。
「もう、誰かを“見失ったままにしない”ために」
◇
帰り道、結は静かに言った。
「見られるって、怖いですね。見られたくないものまで、見えてしまう」
「それでも、人は誰かに見てほしいと思うものさ。
見つけられないまま忘れられた者の想いが、妖になるんだ。
…結は何が見えた?」
結は、遠く霞む村を振り返った。
「……獣の眼の中には、人の哀しさがありました」




