夢見草の宿(後編)
◇
夢の中。
結は気づくと、花街に立っていた。すべてが仄暗く、煙が漂っている。
そして、どこかから囁く声。
「結……あなたは、何者なの……?」
声の主は見えない。ただ、誰かがこちらを見ている。そんな気配だけがある。
「……私は、私よ」
答えながら、二刀を抜く。
目の前に現れたのは、紅音に似た顔をした“女”。けれどその顔は、歪んでいた。
目だけが真っ赤に染まり、笑っている。
「あなたの“名前”、いただくわ――」
◇
結の身体が宙でうなされる。香がさらに強まり、幻が現実に浸食する。
「まずいな。これはこのままじゃ引きずられる」
楓は袖を捲り、指を噛み切って血を滴らせた。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
血で符を描きながら、低く静かに呪を唱える。
符が閃光を放ち、香の壺が爆ぜた。
――同時に、結がはっと目を覚ます。
「は、ぁっ……!」
「戻ってきたね。大丈夫かい?」
「……師匠。夢の中で、紅音さんに似た女が……」
「なるほど。紅音くんに似た“妖”……。やはり、ここには名を喰らう夢魔が棲みついていたか」
「……どうするんですか?」
「追い出すよ。本体ごと、きっちりとな」
◇
翌朝、紅音の部屋。楓と結は再び訪れた。
紅音は扇で口元を隠し、いつもの微笑みを浮かべていた。
「お帰りなさい。夢の世界は、どうだった?」
「おかげさまで、悪夢だったよ」
「まあ、それは残念。お茶でも淹れましょうか?」
「結構。香の匂いがまだ鼻につく」
「随分と失礼ね」
二人の会話は表面的に穏やかだが、その下で互いの意図を測りあっていた。
「夢魔は、紅音くんに化けていたよ。君は知っていたんじゃないか?」
「……気づかないふりをしていた、が正しいかしら」
「ほう。随分と無責任じゃないか」
「私も、誰かを“救う”役じゃないもの」
そのとき、結が口を挟む。
「……でも、あの夢魔、確かに紅音さんに似てた。あれ、偶然じゃないですよね?」
「ええ。名を食らうには、強い“印象”が要る。私は……ずっと、そういう存在でいたから」
紅音の目が、わずかに陰る。その一瞬、結の胸に痛みが走った。
しかし――その空気を破ったのは千早だった。
「お紅さん、そういう風に笑うの、やめてください!」
突如、大きな声。皆が振り向く。
「……あの人たち、あなたを心配して来てくれたんですよ? なのに……!」
「千早」
紅音が静かに手を伸ばし、彼女の頬に触れる。
「ありがとう。でも私は、平気」
「……本当に、そうなんですか」
千早の声は震えていた。その眼差しに込められた想いは、紅音にも届いていたはずだ。
◇
数日後。
街には再び平穏が戻った。死人は現れなくなり、宿には客が戻った。
紅音は何事もなかったように花魁として舞台に立ち、千早はその傍で変わらず給仕を続けている。
「じゃあ、私はこのへんで。君の“影”も、ひとまず消えたようだから」
「ふふ、いつも勝手ね、楓」
「お互い様だろう? 紅音くん」
「……またいつか、夢の中で」
「そのときは、もう少し手加減してくれよ」
二人は皮肉混じりに笑い合う。
そして、結がこっそりと千早に尋ねた。
「その、紅音さんって……いつもあんな感じなんですか?」
「はい。でも、あの人の全部が嘘だとは……思ってません」
結が小さく微笑んだ。
「私も。あんな風に可愛がってもらったの、初めてだったから」
「……っ」
千早がほんのわずかに眉を寄せたのを、結は見逃さなかった。
(……あ、もしかして……)
ふと、心の中で何かが繋がる。
「……また来ますね、千早さん」
「……はい。また、どうぞ」
ぎこちなく微笑んだ千早の頬が、ほんのりと紅く染まっていた。
◇
楓と結が去った後、紅音がぽつりと呟く。
「ねえ千早。私たちも……夢を見ていたのかしら」
「……違いますよ。これは、現実です」
その言葉に、紅音はひとつ目を伏せ、また微笑んだ。
煙のような、掴めない微笑みだった。




