しゃべる草履と道の迷い
旅の途中、楓と結は尾張と美濃の境にある音津の里で足を止めた。
細い山道にひっそりと建つ村は、旅人には“迷うことで名高い”場所だった。
行き止まりのない一本道なのに、何度歩いても戻ってくるという。
その村で「草履がしゃべった」という話を聞いたのは、峠の買い物中でのことだった。
「一月ほど前、旅人が夜中に“草履に呼ばれた”と言って、道に出たまま行方が知れんのです」
「草履が呼ぶ?」
「ええ。あの村じゃ“道祖さまの祟り”だと……村を出ようとすると、草履に道を戻される、って」
◇
その晩、結は村に入ってすぐに違和感を覚えた。
山に囲まれた小さな集落。道は東西に一本だけ。だが、歩いても歩いても、なぜか同じ家の前に戻る。
「これは……空間が捻れてる?」
「地形では説明がつかないね」
楓が、わずかに笑った。
道の途中、石碑のようなものが立っていた。
苔に覆われて読めぬが、形はまるで足跡のようにも見える。
「道祖神……ではなさそうですね」
「“導き”ではなく、“封じ”だな。道そのものを閉じている」
夜、宿をとったが、そこでさらに奇妙なことが起きた。
結が眠りについたころ、草履が音を立てて歩く気配がしたのだ。
ぱた、ぱた、ぱた。
次の瞬間、耳元で誰かが囁く。
「……こっち、こっちへ」
◇
目を覚ました結が外に出ると、自分の草履が、門前にぽつりと置かれていた。
まるで「ここから行け」と言っているように。
「誘導されてますね……草履に」
「ふむ。まるで“人の道を借りて”誘っているような」
翌朝、二人は村人に話を聞いた。
「迷って戻ってきた者には、“草履の裏に誰かの名が書かれていた”ことがあるそうです」
「その名は?」
「みんな違うが、もう亡くなった人ばかりです。しかも、昔この村を出て行った者ばかり」
結は考え込んだ。
「つまり――草履を使って、亡くなった者の“記憶の道”に引き込んでいる?」
◇
その夜、結はわざと草履を外に置き、見張っていた。
深夜、またあの音がした。ぱた、ぱた、と。
草履がひとりでに門を越え、道を歩いてゆく。
まるで見えない足が履いているように。
結はそれを追った。
が、歩けど歩けど村から出られない。道は曲がらず、角もない。けれど風景だけが少しずつ違う。
やがて、道の先に小さな祠が見えた。
中には、ぼろぼろになった草履がひと組、供えられている。
「この祠……」
「それは、“帰らぬ者”のための祠じゃ」
不意に、背後から老婆の声がした。
村の長だという。
「昔、山越えの途中で道に迷い、命を落とした旅人たちを悼んでな。
けれど、近年“喋る草履”が現れるようになってから、行方知れずが増え始めた」
「草履は、“道に迷って死んだ者の意志”……?」
「そうじゃ。戻りたくて戻れず、道の記憶に取り憑いた」
◇
翌朝、結は祠にもう一度訪れ、草履に封印札を置いた。
その下にあった石板には、名前が彫られていた。
それは、村を出た者たちの名ではなく、この村の誰にも知られていないはずの名だった。
「……師匠。これは“迷った者”ではない。“迷わせた者”です」
「ふむ、つまり?」
「これは、“道そのものを歪めた者”の記録。
草履に憑いていたのは、道に迷い殺された者の霊じゃない。
その道を作り変えて、村を閉じた誰かの――封印」
結は確信した。
「誰かがこの村を、“外と切り離す”ために、道を閉じ、記憶を消したんです」
◇
楓は、草履の下の石板に手をかざした。
空気が、重く、淀む。
「開けるよ」
結が頷き、封札を剥がす。
その瞬間、祠の空気が一変し、突風が吹きつけた。
「来た……!」
黒い影が草履から立ち上がる。
形はない。風のような、ただ重たい“存在”。
「帰れ……戻れ……ここは、誰も通れぬ道……」
声が反響する。
結が札を放ち、楓が呪を唱える。
「天地を裂くは我が意、四象を鎮めるはこの符。――封」
札が燃え、風が砕けたように散る。
祠は静まり、草履はただの古い遺物へと戻った。
◇
村の道は、それ以来、迷わなくなった。
峠を越える旅人の数も戻り、草履が喋ることもなくなった。
結は、最後に石碑を見つめて言った。
「誰かが、村を閉じた。忘れられた名前が、“道”に残っていた」
「記憶は道に宿る。草履は、その記憶の入り口だったんだ」
「じゃあ……その草履を、踏んで進んだ人は……」
「進んだのではなく、“戻された”んだろう。記憶の始まりに」




