金木犀の峠
時は室町。霧の立ちこめる秋の山道を、二人の影が進んでいた。少女の三つ編みが風に揺れ、腰には二振りの刀。後ろを歩く男は華奢な体躯に眼帯をつけ、肩に小さな包みを抱えている。
「……師匠、やっぱり昼からお酒ですか?」
「茶屋で良い酒が手に入ってね。ほら、君も団子を買ってたじゃないか」
後ろの男──楓は、にこにこと笑って包みの団子を広げる。前を行く少女──結は、ため息をひとつついた。
「それ、私が買ったやつなんですが」
「君が寝てる間に、ありがたくいただいた」
「寝てたのは師匠のせいですよ。朝ごはんの匂いに釣られたんですから」
「ふふ。でも、しっかり起きたじゃないか。偉い偉い」
結は黙って足を速めた。楓の教育は一見ずさんだが、彼がいなければ自分はここにいない。それはよくわかっている。
今日の依頼は、峠の妖退治。近くの村で「峠に目玉が浮かんだ」「山の声が聞こえた」と噂になっている。牛が死に、子どもが怯え、村人が山を恐れるようになった。
「“山瞳"かもしれないな」
「妖ですか?」
「昔は山神の眷属だったらしい。人の心を覗き、恐怖を喰う。目を通して“奥”に入り込むのが得意なやつだ。」
「師匠……それ、もっと早く言ってください」
「君が団子に夢中だったから、つい忘れてね」
◇
日が暮れた峠は、あたり一面が金木犀の香りに包まれていた。秋の空気に混ざる甘い匂いに、結の心は少しだけ和らぐ。
「…懐かしい匂いですね。姉さんが好きだった匂い。」
「そうだったね。……お、来るよ」
その瞬間、林の奥の木々がざわめき、一本の巨木の幹がゆっくりと変色した。そこに現れたのは、“巨大な目”だった。血走った白目、異様に濡れた黒い瞳孔。それが結を捉えた。
「おまえの奥……深くまで……見えたぞ……」
声とも音ともつかない何かが、山中に響いた。
「来る!」
結が刀を抜いた。銀光が霧を裂き、空気を斬る。だが、斬撃は“目”に届かない。斬ったはずの幹が、まるで霧のように形を変える。
「効かない……!」
「君の刃は実体に届かない。心に入り込んだ妖は、斬る前に“引き出す”必要がある」
「だったら……これで!」
結は袖から札を一枚取り出した。白地に赤の符が書かれたそれは、封印札ではなく“封じ札”──妖の動きを一時的に止めるためのもの。
「──止まれ!」
叫びとともに札を投げる。風を切った札が“目”に貼りついた瞬間、空気が凍ったように静まった。木々も動かず、音もない。
「今だ!」
結が跳びかかる。二振りの刀が交差し、目の中心を斬り裂こうとする──が、幹はまたしても形を変え、霧のように逃れた。
「札が効いても、斬れません……!」
「完全に姿を現していないからだ。一時的に閉じ込めなさい。結の札なら、奴を“捕らえる”ことはできる」
結は深く息を吸い、もう一枚の札を取り出す。それは“封じ札”の上位にあたる術札。数秒間だけ、妖を札の中に封じ込めることができるが、時間が限られている。
「……っ、行きます!」
札を指先で折り、掌で祈るように押し出す。符が光り、周囲の霧を巻き込みながら“目”の中央へ吸い寄せられていく。目がうねり、震え、叫びを上げながら札の中へ吸い込まれ──消えた。
沈黙。
「よし、今だ。渡して」
結が封じ札を差し出すと、楓が懐から別の封印札を取り出し、それを重ねて祈りの言葉を口にした。札が金の光を放ち、熱を帯びて空気が揺れる。
そして──すべてが終わった。
◇
「師匠、封印の仕方はいつになったら教えてくれるんですか?」
帰り道、結が聞いた。
「うーん、それは君がもっと“自分の目”で物を見られるようになったら、かな」
「……その“目”って、なんですか。比喩? それとも、また意味深なやつですか?」
「さあ? 君が考えるんだよ。考え方一つで視野は変わる。」
またはぐらかす、と結は歩きながら文句を垂れる。楓は何も言わない。
金木犀の香りが、ふわりと背中を押した。
「……師匠。お団子、まだ残ってます?」
「最後の一個、君に取ってあるよ」
「……珍しいですね」
「頑張ったからね。あと、もう一つ残ってる。私のお酒は?」
「はいはい、帰ったら買いに行きますよ」
霧の晴れた峠を、二人の影が並んで歩いていく。
秋の風に金木犀が揺れ、微かな香りだけが、あとに残った。