20170717スマホ依存と稲光
つい先日、イギリスの皇太子が若者たちのスマホ依存に苦言を呈していたが、そのニュースによれば若年層のスマホチェックの回数は1日あたり150回にも及ぶという。
これほどではないにせよ、我が身に照らして省みるに、五十歩百歩の感を禁じ得ない。
既に小学生の頃からスマホを所持する子供が多くなっているし、受験生だから解約、という一時の常識は早くも時代遅れになってしまった。
ゲームアプリやYouTube、SNSと個人的な好みの違いはあれど、これだけの猛烈な頻度で1つのアクションを断続的に繰り返す生活というのは人類史上かつてなかったに違いなく、それが他者からの強制でなく各人の意思で行われている点に、なんともうすら寒い予感を覚える。
数年後には何割の人がAIに仕事を奪われる、という風な話も言われ出して久しいが、機械が進歩するだけでなく人間の思考が退歩するが故に、そうした事態もきっと実現してしまうのだろう。
いや、思考というのは正確ではないかもしれない。心そのものが変質することに近い。
話が少々飛躍するのだが、昨日埼玉の上尾で突風が吹き、夏祭りの屋台群が薙ぎ倒されて多数の怪我人が出たとのニュースが報じられた。
うちの近所でも夕方から宵の口にかけて暗雲が垂れ込め、稲光に続いて叩きつけるような雨風が見られた。幸いに短時間で止んだから大事には至らなかったが、あのまま半日も続けば九州の豪雨のような被害も生じていただろう。
上尾における突風の現場映像の中では、撮影者や通行人たちの「ヤバイ、ヤバイ」という警戒の声が聞かれた。
雷が神鳴りの当て字であることは広く知られている。電気もガスも実用化されていなかった時代の人々が、轟く雷鳴と稲妻に神の力を感じ、想像力を逞しゅうして素朴な信仰に結びつけたというのは一見筋が通った解釈だが、果たしてどうだか分からない。日本のご先祖たちが地震を鯰の仕業と言い合ったのは彼ら一流のユーモアであって、本心からではなかったはずだ。
地震や雷の発生原理が科学的に解明され、万人が中学校でその知識を教えられる時代になったところで、ひとたび規格外の気象災害が起これば人々は命の危険を感じ畏怖の思いに絡め取られる。自然の側からすれば少しばかりボリュームの目盛を上げただけのことで、もしも風神雷神がいるのなら、人の心の靡き易さを笑うか憐れむかのどちらかだろう。
風神も雷神も地震を起こす大鯰も、本当はどこにもいないことを、ご先祖たちは知っていた。
だからイメージとしての絵を描き、災害に翻弄される自分達の心を慰めまた鼓舞しもした。
古人の純朴という一種の幻想を信じている我々は、脅威の前ではその幻想の通りに振る舞う。未開で純朴だったはずの古人が、そう振る舞ったであろう通りに。
冒頭のスマホの話と後の話と、二つをどうして繋げる気になったのだか、長くなったせいで思い出せない。
多分スマホ依存というのは表面的には他人や社会と一定の距離をおきつつ常に繋がっていたいと願う気分の発露であり、しかしその実現が結局のところ我々をして空想の中の誰かの純朴さ、有り体に言えば我々自身が許されたいと際限なく願う幼さと愚かしさの水準にまで貶めているのではないかと感じたからだ。
ネットというクラウドの中にだけ見えている人間たちの全体意識は、誰にとっても常に自分自身の思考よりも単純素朴であるという点で、幻想の中の古人と似ている。
本当は各人の意識は互いに隔絶しているにも関わらず、曖昧な自己と曖昧な全体意識の間を漂うように我々の時間は進んでいく。
美徳を伴わない信仰が蔓延る下地は整っているとも言える。
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「私も学問を日々学びつつある人間です。だが、何が本物で何が本物でないかはハッキリと分かる。あなたの生来の発想力、独創性は紛れもなく本物です。だが学問の裏付けがなければ、それは単なる気まぐれ、独り善がり。君は一個の乱暴者に過ぎなくなる。あなたが単なる乱暴者で終わるか、それとも十年後に大を為す者になるか、それはあなた自身が選ぶべき事です」(大河ドラマ『花神』吉田松陰;高杉晋作の松下村塾入門に際して)