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過日記  作者: 湖ポルル


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20140903君を乗せて

君を乗せて


2014年09月03日01:05


全体に公開みんなの日記20 view

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「悪いのは宮崎アニメですよ!」 アニメ規制がテーマの『TVタックル』にて江川達也先生が持論を展開

http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=85&from=diary&id=3035214


エロや暴力をそのままの形で表現することを、敢えて封じて作品を作っているケースもあるな。

宮崎アニメのヒロインは一応少女の姿形をしているからこんな突っ込みが入るけど、ムスカが狼でシータが羊でドーラが山猫みたいなキャラでもファンタジーとしてのラピュタはどうにか成り立つ訳で、それでも同じ突っ込みができるかと言えば難しいだろう。


現実そのままの描写ばかりが正しい訳ではないし、リアル志向の作品であっても、どこかでドリームの部分を組み込まなければ成り立たなかったりする。

ラストシーンに青い空が広がって、見上げる主人公の視線の先を、一枚の花弁が飛んでいく。それで全てが救われるから、作り話にも価値があるのだ。


「例えば小説の中で、単に『赤い花』と書くときも、作家はそれがどんな花であるかを、詳細に想像していなければいい作品は書けない」と、とある作家がかつて述べた。

生々しい描写は、往々にしてそれ自体が目に立ちすぎ、『赤い花』を『赤い花』として書き捨てにするような、大味な作品を生み出してしまう。エロもバイオレンスも、人の愛憎についても然り。


作品というのは本来、何人のキャラクターが描かれていようと、結局は作り手の心の中を見ているものだ。

誰もが情報の発信者たりえ、また物語の語り手たりえる今日において、名作と呼ぶに足るほどの創作が却って少なくなっているのは、作者が技巧の陰に自らの心をひた隠しに隠してしまうからに違いない。

その技巧こそ、性の描写、暴力の描写、リアルな愛憎の描写であって、それらを敢えて排除して物語を描こうと努めるならば、作者には赤裸々な内面をさらけ出す覚悟が求められる。

そういう作品に出会えることは稀なのだけど、宮崎作品の一部は少なくとも該当すると思うし、時代の流れを越えていくものというのは、結局はそんな作品に限られるのだろう。

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