20160730プランターと太陽
プランターと太陽
2016年07月30日00:59
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■学校の端末「1人1台」後押し 文科省、標準仕様作成へ
(朝日新聞デジタル - 07月29日 18:10)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4118119
仕事柄ちっと具体的な話になるが、中学生で英語「3」程度の評価を取っていても、一般動詞の疑問文が作れない、人称代名詞の使い方が全く分かっていない、なんて生徒はごまんといる。
かと思うと、同じ学校から東大京大が規定路線というような高校に進学する子も、毎年必ず数名は出る。
近隣の中学には、公立ながら理解度によって数学のクラスを分割し、上位生には1年生の時から受験問題に取り組ませるようなところもある(ほとんど解説は行われないそうだが)。
これで定期テストは全員共通問題なんだから、格差の厳しさは誤魔化しようもない。
ICTと呼ばれるデジタル教育が取り沙汰されるようになってしばらく経つが、伝統的な紙ベースの教育で基礎的な学力が身に付かない現場の実情を見ていると、これが反転教育だとかアクティブラーニングだとか呼ばれる現代風のスタイルに取り替えられたとしても、際立った効果は見込めないだろうと推察せざるを得ない。
「これくらいは出来るようになりたい」「理解できないよりはできた方がいい」という欲のようなものが、過半の生徒の心の中からすっぽりと抜けてしまっているのだから。
一朝一夕にして現在のような気風が生徒たちの内に根付いたとは考えにくい。恐らくは数十年に渡り続いてきた学校の在りかた、地域社会の在りかた、ひいてはこの国の在りかたによるところが大きいのではなかろうか。
親世代に問いたい。定期テストや通知表の結果のみで我が子の学力を判断し、その数字のみに一喜一憂していないだろうか。
語弊を恐れずに言えば、学校の役割の一つは生徒に順位をつけることであり、全員を「出来る子」にすることではない。学校の教師たちが満点かそれに準ずる点数を期待する生徒など、指折り数えるほどしかいない。
教師から期待されなくなったとき、子供の学習意欲は消滅する。それは学業の陥穽とも呼ぶべきもので、こうなってしまっては素養に恵まれた子でさえも以後の成長は難しい。学年を重ねるごとに停滞の傾向は顕著になり、やがて低空飛行に慣れた生徒たちは敢えて上昇気流に乗ろうとはしなくなる。宿題が紙のドリルからタブレットに変わろうと、下位の序列を押し付けられる生徒が必ず過半である以上は、この構造的な問題を解決することはできないだろう。蛇足を言えば、他に先駆けて電子黒板やパソコンを導入した学校で生徒の学力が飛躍的に伸びたという話はついぞ聞かない。
親世代に伝えたい。
学校のそうした姿勢、教師たちの在りかたというものは、かつても今もそうであり、またこれからもそうであるということを。
そしてだからこそ、全ての子供たちに明日の成長、年相応の姿を期待することは、それぞれの親たちの大切な役割だということを。
社会に委せておいたのでは、具体的な理想もないままに、子供たちの時間は過ぎていってしまう。不安と期待の両方を、一番身近な大人が感じてやることで、子供の歯車は動き出す。
止まっていた時間が長いほど、その始動には時間がかかるだろうが、焦ることなく、また不断に、思い描いてやって欲しい。その願いに応えようとする幼い者たちの気持ちこそ、成長の本質に違いないから。




