20161122国語雑文
国語雑文
2016年11月22日05:46
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「AIの性能を上げている場合ではない」──東ロボくん開発者が危機感を募らせる、AIに勝てない中高生の読解力
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=32&from=diary&id=4304168
国語の読解問題では、本文の著者Aと問題の作成者Bが異なる場合がほとんどである。
さらに、問題の作成者Bと子供達の指導を受け持つ教師Cも異なる場合がほとんどである。
ABC三者の意識の間に齟齬があり、
現場の指導が問題の回答力に繋がらず、
そればかりか問題の回答力が本文の読解に拠らないという例も多々、見受けられる。
国語の授業では、絶対的にトレーニングというものが足りない。
物語や詩を鑑賞する心を養うことも必要だが、言葉という道具に親しみ使いこなすための練習にもっと時間を使うべきだ。
英語の例文のような、短い文を数多く書くこと。
未知の喩えや表現を読み飛ばすのでなく、その意味を知ること。
声に出して読むこと。
逆や対の概念を意識すること。
平易な言葉に置き換えること。
同じ意味の言葉を探すこと。
文章の型を知り、それをなぞること。
次第に型を崩すこと。
すべきことは多く、それらをせずに読解力を鍛えようとすることは、理論だけで筋力を伸ばそうとするに等しいのだが、徒労とも呼ぶべきその空虚な指導が、もう何十年も公教育の場で続けられてきている。
時間が足りないのも問題の要因と言えるだろう。こういったことは、学校でなくとも日常の中で実践できるし、むしろ学校や塾といった教育の場よりも、家庭での過ごし方が決定的な影響を与える類のものだ。
読解力の衰頽は、心の衰頽の影でもある。




