冥婚
「ウサギ姉ちゃん、死んだら僕と結婚して」
残酷なプロポーズだった。
だけど、互いにそれが当たり前だった。
一生に一度のセリフを恥ずかしげもなく真っすぐ言い放った、私の可愛いハチ。外の寒さに鼻頭はほんのり血色づいていて、その幼い表情が、今聞いた言葉とはちぐはぐで、どうしようもない気持ちになる。
その結婚は決められたことだった。どうともできない定めだった。
だというのに、それなのに、
この愛しいハチは、あたかも一世一代の告白のように、まるで自分が決めたことのように、私に契りを求めている。
この誠実さを断れるか。
この純粋を裏切れるか。
この無邪気をあしらえるか。
愛らしいハチの両手をそっと握る。誓いのように。祈りのように。崇拝のように。
「喜んで」
私はどんな顔をしていただろう。きっと、世界一幸せな顔をしていたに違いない。だって、あの子からのプロポーズだなんて、夢にも一生出てこない。
そう。うれしかった。何もかもがはち切れそうなくらい。今すぐにでも死んでしまいたいくらい。
だから、だからこうなってしまった。
「これより、御簾蒲ハチと稲葉ウサギの冥婚を執り行う。」
だから、彼は死んでしまった。
暗い部屋の中で蝋燭がゆらゆらと揺らめいている。私の目の前には、黒い棺が置かれていた。棺の中にはハチが横たわっていた。ハチはきれいに死化粧を施されていて、まるで眠っているかのようだった。私の頭に多い被った角隠しがひたすら重く感じる。侍女たちに気つけられた、繭のように白いこの花嫁衣裳もまるで罪人の服のようで、ただひたすら私の体を圧迫している。ハチは私と同じように婚姻衣装を着せられていた。二人の装いは結婚そのものだった。ただ違うのは、花婿の身体が生命活動をしていないことだけ。
巫女が私の前に盃を持ってくる。明るい場所では鮮やかな朱色であろう盃は、この薄暗い部屋の中では、むしろ赤黒い血の色のように見えた。盃には酒が注がれており、鼻を突くようなアルコールの匂いがする。それを呑めと言わんばかりの数多の視線が私に集中している。私は盃に口をつけ、一口飲むふりをする。巫女が私から盃を受け取り、もう一つ渡してくる。盃を手に私は棺に近づき、ハチの口元にそれを持っていく。酒がこぼれないようにゆるく盃傾けながら、ハチを盃に口づけさせる。ハチの唇はもうとうに水分を失っていて、不意にこぼれた水滴が彼の唇を潤したが、彼の唇に血色が戻ることは決して無くて、そこで「ああ、私の愛おしいハチはもう死んだのだ」とただただ思う。
どうして、どうしてハチが、死ななければいけなかったのだろう。
「それでは、これより神降しの儀式を始める」
神主がそう声高に告げる。
到底、普通の結婚式では聞かないセリフである。ただ私たちにとっては、それが普通であった。それが私たちの結婚の条件だった。拒否もできず、逃避もできず、それでもハチと私をつなぐ理不尽で幸運な条件だった。
神主がハチの口に何かを押し込む。それは、この家では聖遺物と呼ばれるもので、代々当主に伝わってきたものだった。それが一体何なのかは私のような分家が知る由もなかった。本物を見るのも初めてだったそれは、暗い部屋の中ではただ球体で、有機物のようであることしか、わからなかった。
神主が祝詞を挙げ始め、参列者たちがそれに続く。一つの音が多重に重なり、私の鼓膜を震わせてくる。一定の拍に合わせ、何度も何度も繰り返される。抑揚のない単調な音程で粛々と唱えられるそれは、私を責め立てるように聞こえた。私の罪をこの場で晒されているようだった。祝詞に合わせて、私の心臓はバクバクと音を立てている。ハチの心臓はもう止まっているのに。私の心臓は意味もなく動いている。ハチの体にはもう、血も涙も流れることは無いのに、私の体はだらだらと代謝を続けている。何もかもが嫌になる。私の生を実感する何もかもがハチの死をより対照に鮮明に、突きつけてくる。その場から逃げ出すこともできず、ハチの死体から目をそらすこともできず、ただただ私はとどまり、この儀式を見守っているだけだった。
グチュ
人工的な音の中に、何か一つ自然的な音がまぎれる。
グチュグチュ
不快にも感じるその音。しかし、今だけはその生き物らしい音が、この異様な空間の中で落ち着くようにも感じた。祝詞はまだ続いている。それでも私は、そのわずかな音を耳でそして、目で見逃すことは無かった。
ハチの口が動いている。
口の中に入れられた聖遺物を、グチュグチュと音を立てながら、ハチの口は咀嚼を続けていた。ありえない光景だった。しかし、誰も動揺していない。死者の口が動いているのに、それが当たり前のように。
やがて、口に入れられていた聖遺物は、ハチの口によってぐしゃぐしゃにされ、もはや液状に近い形になっていた。咀嚼音は、奥歯で食べ物をすりつぶすような音に変わった。耳が目が、ただただひたすらに、その行為に釘付けられる。まるで生きているような、生きていたら喜べるのに。その光景はただただ私に罪の意識を植え付けるだけだった。
ごくん
ついに聖遺物は、ハチによって呑み込まれた。それと同時に手が動いた。ハチは棺の淵に手をかけ、上体を起こした。そこでようやく祝詞が止まった。ハチはゆっくりと体を起こしながら、やがて周りを見渡した。そして私を見つけると、ハチの顔は笑った。それは紛れもないハチの笑顔だった、私を姉と慕い、いつも見つけては追いかけてきて、私と話そうとするとき、ハチはいつも笑っていた。ただ違うことがあるとすれば、その顔には前と同じ血色がないこと、目の奥に何か得体のしれないものが渦巻いていることだった。
「お前が私の花嫁か」
ハチの声で、ハチの体をしたそいつは言った。
ああ、成功したのだ。
ハチの体に降りたそいつを見て、ハチの声帯を借りて紡がれた言葉を聞いて、私の罪はこの世に姿を現した。
この日私は、神と冥婚契約を果たした。