中
「こんにちは。勇者様。身体の調子はどう?」
神巫は全く動じず、淡々と答えた。小さい頃から周りに世話をされることが当然の神巫にとって、浴室に他人がいることへの抵抗感は少なかったのだ。それに乳白色の薬湯に浸かってる限り、身体が見えることはないと、神巫は分かっていた。
「もうバッチリ! ありがとう聖女様!」
勇者は神巫の手を取ると、その指先に優しく口付けした。まるで、おとぎ話に出てくる王子様のように。
「それは良かったね。神官さん達は?」
「ん? 今日は魔法で寝てもらった。前回荒っぽいことしたら王様に大目玉を喰らったから、今日は穏便に……ね!」
神巫は浴室の外をチラッと覗いた。何人もの神官がスヤスヤと眠っている。
「ねぇ、聖女様……」
勇者がサッと手を上げると、その指先辺りに魔法陣が現れ、バタンと扉が閉まった。魔法を使って扉を閉めたのだ。勇者の瞳が怪しく光る。
「俺の聖女様……」
勇者は先ほど手に取った神巫の手に、頬擦りをした。頬擦りはどんどんと激しくなる。
「せっかく俺と2人っきりなのに、なんで他を瞳に映すの? 俺のことだけ考えてほしい。ずっと俺のことだけ考えてよ。ねぇ、お願いだから。……やっぱり神官の奴ら気に入らない。聖女様の瞳に映るなんて気に入らない。あいつらを亡き者に──」
「はいはい。了解了解」
神巫は勇者の髪を、両手でわしゃわしゃと撫で回した。すると勇者の瞳が先ほどまでと打って変わり、キラキラと輝きだした。
「うん、やっぱり……」
勇者は犬だと、神巫は思っている。ご主人様にとことん尽くす忠犬。もしくは狂犬。
しかし、なぜ神巫がご主人様認定されたのかは、全くの不明であった。きっと死の淵から何度も救ったからだと、そのように神巫は考えている。
しかしこの異能を、神巫自身は極力使いたくなかった。
「勇者様。できるだけ致命傷は負わないでほしいの」
「またその話? そういえば俺、魔王と戦った時の記憶が、なぜか毎回無いんだ。だからいつも同じパターンで致命傷負っているらしくて。俺って超ダサい……」
勇者はしゅんとして、潤んだ瞳で可愛らしく神巫を見つめた。犬で例えるなら、クーンと高い声で鳴いている感じであった。
「うん。ごめんね……」
神巫は眉尻を下げ、勇者の頭を優しく撫でた。
神巫は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。経験が積み重ならないのは、神巫の能力における重大な欠点の1つだからだ。神巫の能力は肉体の時間を戻すもの。よって能力を使えば、時間を戻した分だけ記憶も消える。例えば1ヶ月戻すと、その1ヶ月分の記憶は丸々消える。嬉しかったことも楽しかったことも、貴重な経験もなにもかも。
しかし記憶が消えることよりも、神巫の異能には、もっと危惧するべき欠点があった。
「なんで謝るの? 致命傷は負うなって話、俺の命が心配なのかな~って思ってたけど……。もしかして他にも何か理由があったりする?」
神巫は答えに困った。国王から、欠点を他言しないように釘を刺されているためだ。
しばらく俯いて黙っていたが、神巫は決然とした表情でまっすぐに勇者を見つめた。
「私が異能を使うと、勇者様の──」
「寿命が縮むから」と言おうとしたが、神巫は声が出なかった。代わりに全身が激痛に襲われる。息の仕方が分からなくなる。
「聖女様!?」
勇者は服が濡れるのも構わず、浴槽の中へと飛び込んできた。乳白色のお湯と花が浴槽から溢れて流れ出た。
勇者は神巫を抱きしめ、背中を優しくさする。
「ゆっくり呼吸してね。深呼吸だよ。深呼吸。そうそう上手──」
しばらくすると、神巫を襲う痛みはスッと引いた。
神巫は、虚な瞳で勇者を見上げる。
「勇者様ありがとう。なんでか分からないけど全身が痛くなって……」
勇者は顔を紅潮させた。そして恍惚とした表情で、神巫を見つめた。
「あーかわいい! 潤んだ瞳で俺を見上げて、その上お礼言われるなんて最高! かわいすぎでしょ!」
神巫はげんなりした。勇者の狂気じみた笑い声が頭に響いてガンガンする。
「今はおやすみカンナギ。その痛み、俺が必ず取ってあげるから」
「……え?」
勇者がふわっと片手を挙げると、そこに魔法陣が現れた。勇者の瑠璃色の瞳に金色の星々が見えた気がして、神巫は瞳を細めて、勇者の頬にそっと手を伸ばす。
「本当にラピスラズリみたい──」
次の瞬間には、神巫の意識は完全に途絶えてしまった。
◇◆◇
「いつものベット……」
神巫は上半身を起こした。サイドテーブルの灯りだけが頼りの薄暗い部屋。薄く柔らかい生地でできた、淡い桃色のワンピースを着ていることに気付く。
「いつものパジャマ……」
窓の外は分厚いカーテンで見えなかった。しかし全く光が無いので、もう夜なのだろうと神巫は思った。
神巫はベットを降りて、靴も履かずに窓の近くへと寄った。
「あぁ! 聖女様、お目覚めになったのですね!」
神官が1人水さしを持って、神巫の自室へと入ってきた。神巫の身の回りの世話を、いつも献身的にしてくれる女の子だ。前に名前を聞いたら「聖女様に名乗るのはおこがましい」と言われてしまった。だから神巫は、心の中か独り言限定で、彼女のことをAちゃんと呼んでいる。
「もう真夜中ですよ。今日は月の光が弱いので、外は真っ暗です」
「もしかして新月なの? 3つとも?」
「いいえ、今日は2つの月が新月です。1番小さい月は三日月です。とても珍しく、危険な夜です」
「危険なの?」
「そうですよ。新月の日は魔の者の力が強まるのですが、それが2つも重なっているわけですから。だから、今日は城の警備を、いつもよりも増やしているそうです」
「ふーん……」
城の警備を増やしているということは、城に隣接した神殿の警備も増えているのかもしれない。そんなことを考えながら、神巫はカーテンをずらして外をチラッと覗いた。確かに月明かりが無く、とても暗かった。
「──聖女様。勇者に、何かよからぬことをされたのでは」
Aは小声で神巫に尋ねた。その整った眉を顰めて話を続ける。
「我々神官が目覚めた時、奴はもういませんでしたが、聖女様が気を失われていて……」
「いや、特に。いつも通り話をして、その後眠くなって」
神巫は重要な部分は伝えなかった。身体を襲った痛みについては伝えるべきではないと、何故かそう思ったのだ。
「下賎の生まれが聖女様に近付くなんて、汚らわしくてたまりません! 奴は元々平民だったのですよ! 勇者に選ばれて貴族の地位を与えられましたが、気持ち悪くてしょうがありません!」
Aはまるで害虫の話でもするかのように、勇者の話をした。この国では、個人の能力よりも出自が重んじられている。神巫には理解しにくい感覚であった。
「──えーと、なにか軽食を持ってきてもらえますか?」
「えぇ、聖女様。少々お待ちください」
Aは美しくお辞儀をして出ていった。
「Aちゃんも良い所のお嬢様なのかもな~。貴族生まれでないという点では私も当てはまるけど、Aちゃんは私をどう思っているんだろう……」
なんの前触れもなく、ガチャリと扉が開いた。神巫は驚いて扉へと目をやる。Aがもう帰って来たのかと思ったが、そこに居たのは黒いローブを羽織った背の高い誰かだった。