上
「私の心を覗いてほしい」
朱墨家当主の朱墨神巫は、隣に座る美しい女性に、こっそりと耳打ちした。鮮やかな水色の着物を着こなした、魚住家当主の魚住まりもに。
「え?」
濁りの無いまっすぐな瞳は、まりもの正義感の強さと、聡明さを体現している。その瞳に明らかな困惑が浮かび、神巫は珍しいものを見れたと、非常に嬉しくなった。
「かわいーね! まりもさん」
「え……?」
神巫は満面の笑みを浮かべる。顔が緩んでしまうのは、避けようがないことであった。
「ふー、落ち着かなきゃ。落ち着け私」
神巫は自身の胸に手を当て、深呼吸をした。興奮する気持ちをどうにか押し込め、神巫は引き続き小声で話す。
「お願い。まりもさんは心を読むことができるのでしょう? 私、知っているんだ」
「そ、そうだけど、当主会で異能の使用は……」
「大丈夫。バレなきゃ良いんだよ。それに禁止ではないでしょう?」
神巫は自信ありげに微笑んだ。そして、ゆっくりと周囲を見回した。
この場には数十名の、和装に身を包んだ男女が集まっていた。漆黒のテーブルクロスがかかった長方形の机を囲うように座っている者が、各家の当主である。それぞれの当主の背後に立っている者は、その護衛だ。全体としてひりついた雰囲気が漂っているが、仲の良い者同士で話をしたり、黙々と懐石料理を楽しんだりと、それぞれが思い思いの時間を過ごしている。
誰も、神巫とまりもの会話に関心を示していない。
「──ね? お願い。私とっても興味があるの。心を覗かれてみたいなぁ」
神巫は口元のあたりで祈るように両の手を合わせて、少しだけ首を傾げた。髪に飾られたかんざしがシャランと鳴る。神巫は自分が1番可愛く見える角度を知っている。
「えっと、でも……」
まりもは神巫の背後、護衛の男性に困ったような目線を向けた。神巫の弟に当たる千早である。
千早は、まりもと目線を合わせることなく、スッと目を閉じた。神巫は後ろを振り返り、そんな弟を見てクスッと笑う。
「はぁ、分かったわ。ちょっとだけだからね。じゃあ私の目をよく見て」
神巫は頷くと、まりもをじっと見つめた。そして、事前に決めていた言葉を強く念じる。
「……え?」
まりもは目を見開いた。
◇◆◇
「あぁ、良かった! ちゃんと来てくれて」
「まさかこんな場所に呼び出されるとは、思ってなかったわよ」
当主会がお開きとなった後、神巫はお手洗いに行きたいと言った。いつもなら女性の護衛が付いて来るが、今日は男性しかいなかった。よって神巫の予想していた通り、妹の榊が付いて来る運びとなった。なお榊と千早は双子で、2人は先日二十歳となったばかりだ。
このお手洗いには3つの個室があり、奥の壁には、高い位置に光を取り入れるための小窓がある。開ければ女性がちょうど1人通れるくらいの、すりガラスの小窓が。
2人は目配せをした。神巫はまず、髪に飾られたかんざしを丁寧に抜いて、榊に手渡した。このかんざしに盗聴器とGPSの機器が隠されていることを、2人は知っていたからだ。「榊ごめん……私、お腹痛いかも……」と一言添えてから、神巫は榊に肩車をしてもらい、小窓から外へと這い出た。
そして、現在に至る。
「なるほどね。珍しく袴を着てると思ったら、そっちの方が動きやすいから? そこまでして私と2人になりたかったのはなんで?」
「心を読んでくれたんだー。説明省けて良かったよ! 時間が無いから。この密会はもって10分くらいだね」
楽しそうな神巫。困惑気味なまりも。しかし神巫は突然真顔になり、スッと目を伏せた。
「まりもさん、あのね……」
まりもは相手の瞳を見た時、その者の思考を100%読むことができる。しかし瞳を見なくても、ある程度は読むことが可能だ。
よって例により目を伏せた神巫の思考を読もうとしたが、そこにあるのは「無」だった。一気に恐怖が沸き上がり、息を呑んで身構える。
「まりもさん、私と友達になってください!」
「……は?」
「きゃっ! 伝えちゃった!」
神巫は顔を紅潮させ、子どものようにはしゃぐ。一方のまりもは、完全に拍子抜けだと言いたげな顔をした。
「え? そんなことで? 朱墨家は色々と噂が絶えないから、もっと重要なことかと思った。ハラハラして損した気分よ」
「そんなことって酷いなー。私普段は部屋に閉じ込められているから、友達1人しかいないんだよ? たまに外に出してもらえるけど、それは異能を使う時か、年に1度の当主会くらいで」
まりもの脳裏に、見たことのない部屋の情景が流れ込んできた。神巫が自身の部屋を思い浮かべたため、それを図らずも読んでしまったのだ。
20畳ほどの広い室内には、白を基調とした可愛らしい家具が並ぶ。大きなベッドにはレースの天蓋が付いており、ドレッサーにはトレンドの化粧品が所狭しと並んでいる。ベッドが置かれた壁の対面は本棚となっており、その全てに本が詰まっている。どうやら異世界ファンタジー小説が多いようだ。上記の情報だけなら、ただの可愛らしい部屋と言えたかもしれない。この部屋の明らかに異常な所は、窓に頑丈な鉄格子が嵌められていること。ベットのそばにある2つの扉の先が、それぞれお風呂とお手洗いになっていること。そしてこの部屋が、外から鍵をかけられることだった。
「まりもさんは裁判官しているんでしょ? その異能あれば最強だね。良いな~」
まりもは絶句した。神巫の置かれている状況に驚愕して、何も言葉が見つからない。
「──ねぇ、答えは? まりもさん、私の友達になってくれる?」
「……え?」
まりもは唖然としていたが、神巫の言葉で思考が現実へと戻ってきた。小さく息をつくと、真剣な瞳を神巫へと向ける。そして、ゆっくりと丁寧に言葉を紡いだ。
「えぇ、もちろん」
正義感の強いまりもは、神巫の置かれた状況が許せないと考えていた。自分に出来ることは何かと、早速考え始める。
「ありがとっ!」
神巫は無邪気に笑った。まりもも釣られてぎこちなく笑う。
「やっぱり、まりもさんを選んで正解だったなぁ。前々から目を付けてたんだけどね」
「え?」
「さて、まりもさん。お友達になった記念に、私の異能の欠点を教えてあげる」
「……え?」
まりもは困惑した。神巫の発言の意図が分からないためだ。対する神巫は、口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「私のことを神格化している連中がいるのは知ってる?」
「……えぇ。聞いたところによると、あなたは治癒の女神と呼ばれているのでしょう?」
朱墨家の異能は、病気や怪我を治すもの。その中でも朱墨神巫の異能は、歴代の当主と比べても飛び抜けて優秀で、どんな病気や怪我も一瞬で治せるともっぱらの噂であった。
「うん、そう。私、カンナギとかいう御大層な名前も好きじゃないけど、治癒の女神ってあだ名は大嫌いなんだ。だって……」
神巫は一度言葉を切ると、空を見上げた。その瞳は、ガラス玉の様に何も映していない。
「朱墨家が代々受け継いできた異能は……治癒じゃないから」
まりもは驚き、目を見開いた。神巫は淡々と言葉を続ける。
「私の異能は『治す』よりも『直す』が正しく、『直す』よりも『戻す』が的確なの」
神巫は話すのと同時に、宙に人差し指で漢字を書いた。治す、直す、そして戻すと。
「ただ肉体の時間を戻してるだけだから。戻した分だけ、記憶も一緒に消えちゃう。そして病気には全然有効じゃない」
神巫は憂いを帯びた瞳を、まりもへと向けた。
「それとね。もう1つ、私の異能には重大な欠点がある。でもそれらを直隠して、朱墨家の連中は金儲けをしてるってわけ。これから話す情報は、有効なカードになるからね。だからお願い。もし私に何かあった時は、弟と妹……千早と榊をどうかあの家から────」
「聖女様!」
「聖女様! 聖女様!」
「聖女様! 聖女様! 聖女様!」
「聖女様! 大臣がいらっしゃいます!」
神巫は、ふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。せっかく数少ない友人との会話を思い出していたのに、邪魔をされたからだ。
神巫は周囲にバレないように溜息を吐き、瞑っていた瞳を渋々開いた。目の前に、ステンドグラスが見事な教会風の景色が広がる。ここは人々に神殿と呼ばれている場所だ。
神巫は、神殿奥の中央に堂々と置かれた椅子に座っている。背もたれ部分が10mほどある、色とりどりの宝石で派手に装飾された、大理石の椅子。そこに1日中座って微笑んでいることが、神巫の主な役目だからだ。
「めんどいな~」
神巫は小さく呟くと、居住まいを正した。この世界でのあだ名は、女神ではなく聖女だった。
「聖女様っ!!」
丸々と太り額に脂汗をかいた大臣が、神殿の重い扉を力任せに開いた。時間をかけて神巫の前までやってくると、仰々しく片膝をついた。
「勇者が重傷を負ったのです! 今すぐに治癒をお願いいたします!」
「またですか……」
神巫はまたしても溜息を吐いた。そして考える。あの子は何回死にかければ気が済むんだと。
「では、今すぐ連れて来てください」
「えぇ、今すぐに。おい! おまえら! 早く勇者を連れて来い!」
勇者は、担架に乗せられ運ばれてきた。血塗れで、意識が朦朧としている男性。それが勇者だ。重そうな分厚い甲冑には大きな穴が空いており、その下の皮膚は深く抉れている。まだ生きているのが不思議なくらいだった。
神巫は大理石の椅子から立ち上がり、勇者の方へと歩みを進めた。純白のドレスから垂れた幅の太い何本ものリボンが、床を滑り広がる。あまりにも美しい聖女の姿。大臣とその配下の者達は、瀕死の勇者など忘れて、ただ息を呑んだ。
「どれくらい前に致命傷を負いましたか? 出来るだけ正確に」
聖女に見惚れていた配下の1人が、ハッとして話し出す。
「い、一刻ほど前かと……」
「わかりました」
神巫は勇者の血濡れの手に、自身の白い手を重ねた。その次の瞬間、一帯を白い光が包んだ。
「おぉ!! 奇跡だ!!」
周囲から、わっと歓声が上がる。勇者の傷はまるで最初から無かったかのように、綺麗に消えていた。
「もう少しすれば、勇者様は目を覚ますと思います」
神巫は勇者の手に重ねた、自身の手を見つめた。手のひらには、血がべったりと付いていた。神殿の床にも血溜まりができている。神巫はいつも不思議に思う。勇者の生命力は、人間のそれを超えている気がしてならないと。
「さあさあ、聖女様はこちらへ」
微笑みを浮かべる神官達に促され、神巫は神殿に併設された、自室へと移動した。神官は神巫の手に付いた血を、柔らかい布で丁寧に拭いた。その間も完璧な微笑みは崩さない。神巫は彼女達の笑顔を、能面のようだと思っている。何があろうとも、この表情が崩れることはないからだ。なお神官と言っても、彼女達の主な業務は神巫の世話であり、神に仕えることはしないのだった。
「聖女様、湯浴みもされますか?」
「うん、そうする」
「かしこまりました」
神官が5人がかりでドレスの紐と髪を解き始めた。聖女のためにデザインされたドレスは無駄に構造が複雑で、着脱も一苦労だった。そしてドレスに合わせて、ヘアアレンジも手の込んだものとなっているせいで、神巫はより辟易とした。
しばらくして、髪が先に解き終わった。腰のあたりまで伸びた艶のある髪を、神官は高い位置で簡単にまとめる。神巫はやっと頭が自由になったので、ぐるりと周囲を見渡した。
白を基調とした家具に天蓋付きの大きなベット。ベットの近くに2つの扉。ベットの対面の壁は一面が本棚。窓には頑丈な鉄格子。そして、外部へと続く扉には、内側からではなく、外側から鍵をかけられる仕様。ここは奇しくも、日本にいた頃に閉じ込められていた、神巫の自室とそっくりであった。
「さあさあ聖女様。湯浴みの支度もできておりますので」
神官の1人が、ベットの近くにある扉を開いた。白い湯気が部屋にもくもくと広がる。
「では聖女様ごゆっくり。終わりましたら我々をお呼びください」
神官達は美しくお辞儀をして、全員が自室の外へと出ていった。1人残された神巫は、下着を脱いで乳白色の薬湯へと浸かった。
水面には色とりどりの花が浮かんでいる。神巫は、黄色の花を一輪掴み鼻に近付けてみたが、特に香りはしなかった。代わりにヒノキの香りが鼻をかすめた。浴室の床と壁の一部に、ヒノキが使われているためだ。
「同じ木が生えているなんて、やっぱり不思議……」
神巫はまりもと話した数日後、屋敷を抜け出した。後でどんな酷い目に遭おうとも、どうしても行きたい所があったからだ。今まで従順にしてきたため、警備の目は緩んでいた。だから脱走は意外にも上手くいった。行きたい所にも行けた。やりたいこともできた。だから朱墨家の者に見つからずとも、自分から大人しく帰るつもりだった。
暗い帰り道を、1人静かに歩いていた。確かにそのはずだ。しかし、なぜか、どうしてか。気付いた時には、神巫は魔法が幅を利かすファンタジーな異世界、ファスモディア帝国へと転移していた。
「私に何かあった時はよろしくってまりもさんに言ったけど、まさか異世界転移するとは思わなかったなー」
浴室の高い位置には、すりガラスの小窓がある。空の青を映す、はめ殺しの小さな窓を、神巫はじっと見つめた。すると千早と榊、双子の顔が神巫の脳裏に思い浮かんだ。
「あの2人はまりもさんに保護してもらえたかな。私の代わりになってないと良いけど……」
千早と榊は、神巫ほどではないにしろ、異能を使うことができた。この世界に転移してから既に数週間。神巫は2人のことが心配でたまらなかった。
「毎度毎度困りますっ! 聖女様は湯浴み中で!」
「勝手に入らないでください!」
「たとえあなた様でも──」
浴室の外から、争うような声が聞こえてくる。しばらくして静かになったが、浴室の扉が勢いよく開いた。
「聖女様ー!! 俺が来たよー!!」
サラサラの銀髪。ラピスラズリのような瑠璃色の瞳。アイドルのような甘いフェイス。弾けるような笑顔。踊るように浴室へと突撃してきたこの男こそ、先程まで死にかけていた勇者であった。