9. 火事と村の記憶
「あまり長居をしない方がいいみたい……」
白梅がそう言いかけた時、村の奥から、悲鳴が聞こえた。
「娼館が火事だ!」
「きっと、また白猫の妖獣の仕業だ!」
その声が聞こえると、白梅は火事の方向が気になったが、白猫と聞いて、厄介な匂いがしたのと、持ち前の羞恥心も勝り、人前には行きたくないような気がした。
人々の言う、悪さをする白猫の妖獣とは、自分のことなのだろうか?
もしそうなのだとしたら、記憶を無くす前の自分は、一体何をしてしまったというのだろうか?
全ての記憶を思い出した時、その事実が、自分にとって受け入れ難いものだったならば、一体どうしたらよいのだろう。
白梅は、今すぐ霞になって、消えてしまいたい思いでいっぱいになった。
頭の上にある、白いふわふわの猫耳が、しょんぼりと垂れ下がった。
すると突然、村の入り口側から鋭利なものが、白梅たちのいる場所をめがけて、勢いよく飛んできた。
白梅は思わず叫んだ。
「きゃあ……!」
朔夜が素早く反応して、小刀を抜き、飛んできたその一本の矢を払いのけた。
そのまま、村の入り口に向かって駆け出しながら、二本目の小刀を抜くと、地面を強く蹴り、虚空へ跳躍した。
闇に紛れて、鋭い閃光が走り、刃物がぶつかる音があがった。
赤い衣を纏った三人の男が、朔夜を目掛けて、薙刀を振り下ろし、鍔迫り合いになっていたのだ。
朔夜は、素早い動きで、三つの刃を器用に打ち返して、さらに、遠くから飛んできた矢を払い除ける。
村の奥からは、大きな悲鳴があがっていた。
白梅が声の方を見ると、先ほど助けた子どもが、こちらに向かって駆けてきている。
「おねえちゃん、こっちにきて! たいへんなの!」
そう言って、子どもは白梅のそばに駆け寄ると、手を掴んだ。
母親の姿は、見当たらなかった。
白梅は、この場を離れるか迷ったが、子どもの母親が見当たらないことが気がかりだった。
朔夜はかなりの手練れだと思われたのと、なぜか妙な安心感があったので、
「朔夜、そっちはお願いね!」
白梅はそう声をかけると、子どもに手を引かれ、村の奥に向かって走った。
***
火事が起きていたのは、二階建ての大きな建物だった。
まわりには多くの村人が集まっており、火消しをする者、見守っている者がいる。
幸い、両隣の建物は距離があったため、燃え広がってはいないが、消火活動が追いつかなければ、燃え広がるのは時間の問題だろう。
(どうしよう、人が沢山いる……!)
白梅は、知らない人が多い場所には慣れておらず、とても緊張しながら息を潜めて、目立たないように、その場を観察しながら近づいた。
子どもに手を引かれながら、自分の正体がばれやしないかと、居心地悪く、もじもじしていたところ、ここからすこし離れた場所に、先ほどの母親の姿がある事に気がついた。
白梅は、自分は今、妖獣だとばれないように、消火活動を手伝うべきか、子どもを母元まで送るべきか、朔夜の元に戻るべきか、迷った。
小さな頭が煮えたぎりそうなくらい、ぐるぐると悩みながら、片手で目元を覆った。
ふと、そんな白梅の耳に、人々の話し声が聞こえてきた。
「酷い炎だ……」
「ニ階に、逃げ遅れた子どもがまだいるらしい」
(まだ中に人が……!)
その言葉が耳に入るなり、白梅は弾かれたように、獣化をした。
繋いでいた手が外れた子どもは、驚いて、白梅の姿を見る。
(早く、助けないと……!)
白猫の姿になった白梅は、火の手があまり回っていない柱を探しながら、わずかな足場を頼りに、ニ階の窓から、建物の中へ飛び込んだ。
「おねえちゃん!」
「白猫だ!」
「なぜ、火の中に……?」
人々は、火に向かっていく白梅の姿をとらえて、口々に騒いでいるようだったが、白梅は、建物の中の子どもを助けることしか、頭になかった。
白梅は、建物の中に入り、燃え盛る炎の中で、息を止めながら、なんとか通れる足場を見つけて進んだ。
突然、炎で燃えた柱が、目の前に倒れてきた。
急いで飛び上がって後退すると、大量の炎が目の前で散り、目が痛くなった。
煙と灰を少し吸い、抑えた呼吸が、さらに苦しくなってきた。
視界を凝らすと、目の前の部屋に、小さな人影がぼんやりと見える。
白梅は部屋に入り、人影に近づいた。
そこには、ぼろぼろの身なりをした、痩せ細った子どもが座っていた。
その子どもの姿を確認すると、白梅は獣化を解き、子供に向かって声をかける。
「早く逃げよう!」
そして、子ども抱き上げようとした。
その瞬間、白梅の目の前に、鮮血が飛び散った。
なんと、その子供は、小刀を手にしており、白梅の右の掌を切りつけていた。
白い掌からは鈍い痛みを感じ、赤い血が流れ落ちている。
「いかない! かあさんと一緒に死ぬんだ!」
子どもはそう叫んで、荒い息をついていた。
鋭い瞳は、白梅を睨みつけ、錯乱しているようだった。
この部屋の中には、その子どもと白梅以外には、誰もおらず、子どもの言う母親の姿等は、見受けられなかった。
白梅は、突然のことで驚き、唖然と子どもを見つめることしかできなかった。
しかし、その子どもの瞳の中に、酷く怯えた色を見つけた瞬間、白梅はたまらなくなって、その体を優しく抱きしめていた。
白梅は、これ以上、自分の目の前で、誰かが死ぬのを見たくなかった。
恐怖に怯えている人がいるならば、助けてやりたかった。
早少女村での悲劇を、二度と繰り返したくはなかった。
「大丈夫。もう大丈夫だよ」
子どもの背中をなでながら、そう声をかけると、子どもの体から、徐々に力が抜けて、小さな嗚咽が聞こえてきた。
その間にも、炎は、確実に建物を包み込んでいた。
火の手がまわり、天井が焼けて、大きな音を立てる。
白梅が、音が上がった天井を見上げると、なんと天井が剥がれ、炎に包まれた大きな塊が、白梅達を目掛けて、真っ直ぐに落ちてきた。
白梅は、子どもを守るように、腕の中に強く抱きしめた。
(もう駄目……!)
目を閉じた瞬間、自分の体が、ふわりと何者かに抱きあげられる感覚があった。
そして、自分の体が抱きしめられたまま、勢いよく建物の外に飛び出した感覚があり、急速に高温から解放され、呼吸が楽になった。
恐る恐る目を開けると、そこには、月光に照らされている、凛とした美しい顔立ちがあった。
「朔夜……?」
白梅の体を抱えた朔夜は、屋根から屋根へと、軽やかに飛び移りながら駆けていた。
夜風を受けて髪をなびかせたその姿は、星空と白い顔の対比が綺麗だな、と白梅は、場違いなことをぼんやりと思った。
白梅の腕の中では、先ほどの子どもが、気を失っている。
どうやら自分は、朔夜に危機一髪で、助けられたらしい。
白梅は、腰が抜けてしまい、しばらく、朔夜に抱えられながら、その身を震わせることしかできなかった。
そして、体の震えが収まると、右の掌に傷があることを思い出し、大人しくそれを舐めていた。
朔夜は、ひとけのない建物の裏側で立ち止まると、白梅を地面にゆっくりと座らせた。
この場所は、村の入り口に近い道具屋の裏側のようだが、白梅はその光景に、どこか見覚えがあるような気がした。
朔夜は、すぐに白梅の腕から子どもを抱き上げ、地面に寝かせると、懐から布を取り出し、白梅の右掌に巻いて止血した。
「この子、大丈夫かな……」
「呼吸はある」
抑揚の無いその言葉を聞いて、白梅はひどく安心すると、わずかな眠気に襲われて、上半身を少しふらつかせた。
すぐにその体を、朔夜が受け止める。
「少し眠るといい」
そう小さく声をかけてくれたので、白梅は、睡魔に身を委ねることにした。
しばらく目を瞑っていると、最近よく身に覚えのある、暖かい光が、心と体に流れ込むような感覚に包まれた。
***
その日、白梅は、小屋から山道を降りて、村へ買い物に来ていた。
朔に、何か欲しいものがあるか聞いたところ、今日は珍しく、布を大量に欲しがったためだ。
しかも、清潔なものがいいと言う。
白梅は、なんとなく事情を察してやり、布の他にも、暖かそうなひざ掛けサイズの布団と、新しい衣や肌着なども買ってやった。
「これとこれもください」
この道具屋は、白梅がこの村によく来るようになってから通っている店の一つで、慣れた様子で注文した。
***
その日の朝は、白梅は、いつもより少し遅めに起きた。
朔はすでに起きており、寝床に座っていたが、昨日までと違い、随分と顔色が悪く見えた。
ただでさえ白い顔が、今日はさらに、血の気が引いたように青白かった。
「大丈夫? 具合が悪いの?」
そう白梅が聞いたところ、朔は答えなかったが、自身の身体を抱え込むように置いていた手に、ぎゅ、と力を込めた。
白梅はその様子を見て、急いで暖かい茶を淹れてやり、薬を作ってから、村へ出発したのだった。
***
「ただいま。買ってきたよ」
白梅は小屋に戻ると、頼まれていた布を、朔に渡した。
朔が布を受け取るのを見て、続けて話しかけた。
「他にも何かと必要かなと思って、色々買ってきたよ」
白梅は、話しながら、鞄をごそごそと漁りはじめ、一つの小包を探り当てる。
「あげる。使ってね」
そう言うと、小包の袋を開いて、品物を次々に取り出し、相手に渡そうとした。
しかし、それらを見て、朔はわずかに眉をひそめただけで、なかなか受け取らなかった。
そのため品物は、とりあえず枕元に置くことにした。
白梅は、別にこの少女から感謝されたいとは、思っていなかった。
しかし、こちらのお節介であるとはいえ、何の反応も貰えないと、それはそれで寂しいなと思いながら、小さく息をついた。
ところが、驚いたことに、朔は白梅をしっかり見据えると、丁寧に頭を下げてきたのだ。
「恩に着る」
白梅は、何かの見間違いかと思い、何度か瞬きしていた。
朔は今まで、睨むか、視線を逸らしているかのどちらかだったので、初めて普通に、自分を見てもらえた気がした。
「き、気にしないで……!」
しばらくの後、朔は頭を元の位置まで上げると、窓の方を向いて目を閉じて、動かなくなってしまった。
白梅は、今のはきっと自分の見間違いなどではないと思い至り、満面の笑みで調理場に向かった。
朔はその後、横になって休むか瞑想をして過ごし、回復に専念しているようだった。
幸い、薬がよく効く身体のためか、午後にはずいぶん顔色がよくなっていた。
***
その日の夕ご飯は、朔の体を気遣って、白梅が暖かい汁物を作り、ふたりで食べた。
鳥肉や野菜を入れ、丁寧に鳥の出汁を取って作るその料理は、早少女村の郷土料理だ。
体を温めて、元気が出る、白梅の自慢の料理だった。
懐かしいその味に、食べ終わる頃には、白梅の目から、沢山の涙があふれていた。
先に食べ終わった朔は、黙ったまま白梅を見つめている。
「私は、早少女村の人たちに育てられたの。この料理は、村でよく作られていた料理なんだ」
それを聞くと、朔は、少し言いよどむように、口を開いた。
「早少女村は、今……」
「そう、皆いなくなった。噂では、黒龍が犯人なんだって……」
そう白梅が言うと、その場には、重い空気が流れた。
しばらく経って、朔が言った。
「その黒龍に復讐は?」
さらっと聞いてきたその質問に、白梅は、少し驚いてしまった。
復讐……白梅は考えてもみなかったが、同じ状況で、その選択肢を取る人がいるのかもしれない。
「復讐は……しないと思うよ」
「なぜ?」
朔は、さらに質問を重ねてきた。
その様子に、珍しく興味を引いているんだな、と思いながら、白梅は答えた。
「勿論、許すことはできないよ。でも、私は今、生きているから……」
朔が、怪訝そうに見てきたので、白梅は続けた。
「私にはもう何も残って無かったけれど、それでも助けて勇気付けてくれたひとがいたんだ。今は、そのひとに恩返しがしたいかな」
「もし、黒龍に出会ってしまったら?」
白梅は、すぐには答えられなかった。
もし、村の人たちに手をかけた存在を前にした時、自分は一体どうしたいのだろうか。
「本当に黒龍がやったのだとしたら、どうして同じ妖獣なのに、こんな酷いことをするのって不思議に思う。だから、まずはちゃんと理由を聞いてみたいかな……」
「私には、あなたの言っていることが理解できない」
朔は真っ直ぐにこちらを見て、大真面目に言い放った。
どこか苦しげなその様子に、朔が何かに悩んでいるように見受けられた。
白梅は、先ほどから気になっていた質問を投げてみた。
「朔には、復讐したい相手がいるの?」
「いる」
やはり、と白梅は思った。
過去に、何か辛い出来事があったのだろう。
こんなに綺麗で可憐な女の子が、復讐したいと言うなんて、とても悲しいことだと白梅は思った。
朔は、続けてこう言った。
「でも、あなたの意見が聞けて、よかったと思う」
朔はそう言って、椀を片付けはじめた。
「とても美味しかった」
その言葉を聞いて、白梅は悲しみを飲み込むと、ふわりと微笑んだ。