5. 希望
暖かな光と共に、白梅の中に、新たな記憶が浮かび上がってきた。
***
その晩、白梅は、早少女村を離れ、近くの大きな村を当てもなく歩いていた。
心は空っぽの抜け殻になり、なぜ今、自分が生き延びて、彷徨い歩いているのかも、分からなかった。
「早少女村が、どうやら黒龍に襲われたらしい」
「そうなのか?」
「奴が村にいるのを見た人がいるって噂だ」
「それじゃあ、そろそろこの村にも来ている頃なんじゃないか?」
「しかも、もうすぐ成体になるかもしれないって噂だ」
「早く仕留めないと、大変なことになるぞ」
頭痛と眩暈がしながら、白梅は、あまり深く考えずに、その噂話を聞き流していた。
(…………)
白梅は、大好きだった早少女村なくしては、この先どうしたらよいのか、全く分からなかった。
悲しい、悔しい、疲れた、辛い、眠い、お腹が空いた、寒い、悲しい……
大きな村を出て、すぐの場所で、白梅は足に力が入らなくなり、そのまま身体を地面に横たえた。
目の前に、見るからに毒々しい色をした草が、生えているのが見える。
白梅は、自分の命も何もかもを投げ出したくなり、泣きながらそれを食んだ。
その草は、酷く苦かったが、弱々しい力で咀嚼して、なんとか飲み込んだ。
白梅は、自分の身体の中から徐々に、妖力が枯渇していくのを感じた。
そして、身体がどんどん小さくなっていき、どうやら獣化をしていると気づいた。
妖獣は、妖力を利用することで、種族の元となる獣の体……獣体になることができる。
その変化のことは、獣化と呼ばれている。
獣化すると、通常よりも強い力を操ることができるが、獣化が始まり完了するまでの時間は、隙が生まれ、無防備になる。
そして、獣化が完了して、獣体になったとしても、その体を維持するだけで、妖力を大量に消耗する。
白梅は、全てがどうでもよくなっていたので、獣化で妖力を消耗することも構わず、小さな猫の姿で丸くなり、そのまま動かずにいた。
その夜は、とても冷えて、全身の血液が凍えそうだった。
このまま、数刻ここにいるだけで、自分は死ぬのだと直感した。
***
しばらく経つと、背後に、何者かの気配を感じた。
その者は、白梅に近付き、背中に手を当てて、息があることを確かめた後に、こう呟いた。
「この草は、体内に取り込むとすぐに獣化が始まり、しばらくは元に戻れなくなる」
その声は、少し掠れた中性的な声だった。
白梅が、わずかに顔を上げると、目元に薄手の布を巻き、頭を厚手の布で覆った人物が、白梅を見下ろしていた。
黒い衣を纏ったその者は、容姿のほとんどが隠されており、すらりと背が高かったので、白梅は
(怪しい男性だな)
と、ぼんやりと思った。
男は、白梅の体を抱き上げて、両腕の中に収めると、そのまま歩き出した。
「あなたは死にたいようだ」
男は、抑揚のない声で、静かに呟いた。
「私には、分かる」
白梅は、何も言わなかったが、どうしてこの男に分かるのだろう、と思った。
男は、木の影に腰を下ろし、白梅を自身の膝に乗せた。
「死にたいのならば止めはしない」
男の暖かな手が、白梅の背中に触れた。
その手は、少し躊躇いがちに、背中を撫でて、小さな体を温めようとした。
「でも、恐らくあなたは、あなたひとりの力だけで生まれて、今日まで生きてきた訳ではないはず」
男の手つきが、徐々に穏やかな、優しいものへと変わっていった。
「後悔しないように、よく考えて」
その手は、白梅の頭をゆっくりと撫でた。
白梅は、ただ淡々と告げるその声を聞きながら、雪が溶けるように、思考が巡りはじめるのを感じた。
そうだ、自分はまだ生きている。
自分だけが、生き残ってしまった。
その事実は、どんなに後悔して悲しんでも、変わらない。
唯一生き残った者として、自分はこのまま、本当に命を絶ってしまっていいのだろうか。
(村の皆は……どう思うんだろう)
白梅はふと、村の皆は、まだ誰にも弔われずに待っているのだろうかと、気掛かりになった。
自分はまだ、皆に、育ててもらったお礼を言えていない。
きっと村で、白梅のことを待っているはずだ。
自分が弔わなければ、一体誰が弔ってくれるのか。
今まで、自分を育ててくれた村長の記憶は、誰が覚えていてくれるのだろうか。
紗代や皆のことを、白梅以外に、誰が思い出してくれるのだろうか。
優しかった村人達を、世界が時と共に忘れていってしまうかもしれないことに、白梅は、耐えられそうになかった。
それに、いまここで無駄死にをしてしまったら。
今朝、村で食べた畑の野菜や、鳥のピーちゃん、そして今まで自分に命を与えてくれた存在たちにも、顔向けができないと思った。
『白梅』
先ほどから、自分にだけ語りかけているこの声は、自分を守ってくれる存在のような気がした。
白梅は、自分にはまだやることがあって、自分はまだひとりではないのかもしれないと思い至った。
そう思えると、ひどく安心して、微睡の中で意識を手放した。
(みんなが……村で待ってる……)
ここ数日間は、凍えるほど寒かったのに、今夜は珍しく、それほど寒くない気がした。
***
朝起きると、男は既に立ち去っていた。
白梅の体には、厚手の布がかけられていた。
そして隣には、木の実と、水の入った木椀が置かれている。
(あのひとが、置いていってくれたのかな?)
白梅は、自分を助け、声をかけてくれたあのひとに、いつか恩返しをしたいと思った。
一つ目的が見つかると、生きる勇気が湧いてきたような気がした。
***
「そうだ、私はあのひとに恩返しがしたかったんだ……」
突然、白梅が呟いたので、隣に腰を下ろしていた朔夜は、気遣わしげな視線を送った。
「記憶が?」
「うん。少し思い出したよ」
朔夜が、水の入った木椀を手渡してきたので、白梅は受け取ってお礼を言った。
木椀に口を付け、冷たい水を飲み干すと、心地よく喉が潤う。
気づかないうちに、相当喉が渇いていたようだ。
「ありがとう」
水を飲み終えて、木椀を朔夜に返す。
そういえば、あのひとが座っていた場所も、ちょうどこの木陰だった。
「この先にもまだあるんだね」
朔夜は頷くと、すっと立ち上がり、左手を差し出した。
白梅がその手を掴むと、朔夜は、白梅を軽々と立ち上がらせた。
***
山道を進むと、生い茂る木々の中に、一つの古びた小屋が現れた。
もう何年も、使われていないと思われる小屋は、中に入ると、調理器具や寝床のようなものがそろっており、かつて誰かが、生活をしていた形跡があった。
(ここにもある……)
その寝台の上に、花弁の光が漂っているのを見つけた。
やはり、この場所も、自分と所縁があるのだろうか。
白梅は、その光に近寄った。
***
白梅は、あの悲しい夜から、少し立ち直った後、早少女村の人たちを弔うことにした。
その日の朝は、目隠しの男性が置いていったと思われる、木の実と水をいただいて、白梅はすぐに早少女村に向かって走り出した。
村の入り口の目前に、辿り着いたところで、赤い衣を着て薙刀や槍を持った人間が数名、白梅に向かって襲いかかってきた。
しかし、白梅の頭の中には、早少女村の人を弔いたいという強い意志しか無かった。
(皆を弔うまでは、誰にも邪魔はさせない……!)
その強い気持ちだけを持って、村の入り口へ突っ込んで行ったところ、白梅の体が光り輝き、襲いかかってきた人間たちは、強風を受けたように、遠く四方へと、飛んで行った。
『あと四回……』
頭の中で、そう告げる声が聞こえたが、白梅はとにかく村の中へ急いだ。
村に到着するまでは、実のところ、村人たちの亡骸と対面する勇気が無かった。
しかし、いざ村の中に入ると、白梅の記憶にあったはずの多くの亡骸は、全て跡形も無くなっていた。
(皆は、一体どこに行ったんだろう……)
あの夜に起こったことが、今でもまだ信じられない気持ちで、白梅は、村の中を見渡しながら歩いていた。
「……」
懐かしい家、誰もいない畑、音の無い大通り……
そして、村の中央の広場に辿り着くと、誰かが大きな穴を掘ったあとに、何かを埋めた形跡があった。
少し掘り返してみると、服の端切れや髪留めなどの小物が出てきたので、恐らく誰かが、村人を全員、この場所に埋めてくれたのだろうと思った。
しかし、悲劇のあの夜において、白梅以外の村人は、全員殺されていたはずだ。
一体、誰が埋めてくれたのだろうか……
(もしかして、あのひと……)
白梅の頭の中で、あの晩に声をかけてくれた、目隠しの男性がよぎった。
白梅は、村人を埋めてくれた、どこの誰かも分からないひとに向かって、心の中で感謝した。
***
その日は明るいうちに、村人が埋められたその場所に墓石を建て、綺麗な花を摘んで、墓石の前に手向けた。
そして、静かに手を合わせると、白梅は長い間、その場で祈りを捧げ、早少女村に別れを告げた。