3. 奇跡と悲劇
時は戻って、白梅が14歳になった頃。
「白梅、早く行こう!」
「紗代、ちょっと待って……!」
白梅は、歳の近い、紗代と仲が良かった。
村人の中で、白梅と紗代のふたりだけが、齢10代の女の子だった。
紗代の性格は、活発で元気がよく、恥ずかしがり屋の白梅の手助けをしてくれることも多かった。
ふたりは、いつも一緒に遊んでいた。
***
「梅の花が、もう咲いたらしい」
その年は、珍しく、速い時期に梅の花が咲いたという噂が流れていた。
「梅の花……」
「私達、見たことないね」
白梅と紗代は、自分たちが今まで、梅の花を見たことがないことに思い至った。
ふたりは、あまり村から遠くへ離れたことがなく、梅の花は、近所に咲いていなかったためだ。
白梅と紗代のふたりは、梅の花を見に行くことに決めた。
毎年、梅の花が咲くと、各地から大勢の人間が来て、混んでしまうと聞いていたので、早めに行くことにした。
しかしその花は、この村から向かう際に、少し危険な場所を通って行く必要があるため、注意深く進むことにした。
晴天の下、きらきらと輝く川辺に、梅の花は咲いていた。
白梅と紗代は、初めて見るその花の美しさに心を奪われた。
(綺麗……!)
少し恥じらうように、咲き綻び始めた花たちを見て、白梅はなぜか、親近感のようなものが沸いていた。
鮮やかな色と香りに包まれたその場所は、まるで夢の中にいるような光景だった。
だが、帰り道で事件が起こった。
「きゃあ!」
下に続く崖に近い場所を通った瞬間、白梅の前を歩いていた紗代が、悲鳴を上げた。
そして、紗代の体が傾くと、近くの崖に向かって滑り落ちかけた。
季節は、冬の終わりの頃であり、森の中の岩や木は、まだ凍っている場所がいくつもあった。
ふたりは十分に注意しながら歩いていたが、紗代が足を置いた葉の下には、凍った岩があったため、足を滑らせて、運悪く崖から落ちかけたのだ。
「紗代……!」
紗代が、崖から落下するぎりぎりのところで、白梅が咄嗟に気付いて、手を差し伸べる。
そして、なんとか手を繋ぎ止めたが、手が離れて落ちた場合、命に関わる高さだった。
「しっかり握って!」
ふたりは、必死に手を繋いでいたが、人ひとりの重さを支えるには、白梅の腕は細すぎた。
その白い腕の付け根と指先は、既に痛みを感じていた。
しかし、崖下の深い闇を目前にして、絶対にこの手を離すわけにはいかない。
白梅は、紗代をなんとか持ち上げようと、顔を真っ赤にして、全身に力を入れていた。
白梅の汗と涙が、紗代の顔に当たった。
「白梅、私はもういいから、手を離して……」
「絶対に、離さない……!」
紗代の手が、汗で少しずつ、ずれ落ちていくのを感じた。
紗代の体が、重みで一段下がった瞬間に、白梅は血の気がひいた。
そして、慌てて強く祈った。
(神様、どうか紗代を助けて……!)
その瞬間、ふたりの体が光に包まれ、紗代の体がふわりと持ち上がると、白梅の横に着地した。
白梅の頭の中に、優しくどこか懐かしい女性の声が、鳴り響いた。
『それがあなたの願いね。あと残りは七回よ』
ふたりは驚いて、その場で立ちすくみ、息を整えていた。
「紗代、いま何か声が聞こえなかった?」
「い、いや、何も聞こえてないよ。今のは一体……?」
紗代は、唖然と白梅の方を見ており、白梅もぱちくりとその金色の瞳を瞬かせた。
先ほどの声は、どうやら白梅にしか聞こえていないようだった。
しかし、この状況下で、さらに危機は迫っていた。
ふいに、ふたりは、周囲から低い唸り声のような音が聞こえることに気がついた。
(野生の獣……!?)
なんと、白梅たちが落ちかけている隙を襲おうと、三匹の肉食猛獣達が狙っていたのだ。
猛獣は、鋭い牙と爪を持ち、赤い瞳で、ふたりに狙いを定めている。
そして、白梅と目が合うなり、すぐに飛びかかってきた。
丸腰の白梅達は、一瞬、その場に立ちすくんだ。
さらに、紗代は荒い息をついており、先ほどの恐怖から立ち直りきれておらず、震えている。
(紗代だけでも、ここから逃がさないと……!)
「紗代、私が引きつけるから、すぐにこの場から逃げて」
「白梅……!」
白梅は、紗代を守るために前に立ち、猛獣達を見据えて、左足を後ろに下げ、助走をつけた。
そして息を吸って、強く祈りながら駆け出した。
(どうか私に、この場を切り開く力をください……!)
白梅が祈ったその瞬間、体が光に包まれ、妖力がみなぎる感覚があった。
そして、白梅の前にいた猛獣達は、強い突風を受けたように、四方に飛んでいってしまった。
猛獣達がいなくなると、先ほどまでの不穏な様子は跡形もなく、周囲は静寂に包まれた。
(本当に、助けてくれた……!)
『仕方のない子ね。あと残りは六回よ』
そう聞こえた声に、白梅は深く感謝した。
しかし、その声が数える回数は、先ほど聞いた時から、一つ減っていることに気づいた。
この声は、どうやら、本当に自分が困った時に助けてくれるようで、その回数は有限のようだ。
「白梅、ありがとう……!」
「早く村に戻ろう」
白梅たちは、十分に気をつけながら、その場から急いで村に帰った。
***
その翌朝は、村の様子が、いつもと異なっていた。
原因不明の高熱や、体調不良を訴える人が絶えず、珍しく、村全体が混乱していた。
村長の家には、ひっきりなしに村人がやってきて、白梅は看病をしたり、薬を作った。
(どうして、今日はこんなに沢山の人が……?)
このような事態は普通ではないので、誰もが原因を究明したがったが、まずは病人の看病を優先した。
しかし、あまりにも多くの人が、一度に同じ症状で村長の家へやってきたため、夕方になる頃には、薬草が足りなくなってしまった。
白梅は、急いで補充するために、村から少し離れた場所へ、薬草を摘みに行った。
足りなくなった薬草を見分けられるのは、村人の中では、村長と白梅のふたりだけだった。
その上、看病の人手が足りなかったため、薬草摘みには白梅がひとりで向かった。
白梅は、薬草が生えている場所の近くで、川水を少し飲んだ。
今日は、朝起きてからまだ一度も休憩を取っていなかったのだ。
(早く摘んで戻らないと……)
辺りは既に、夜に差し掛かった時間だった。
白梅は、薬草が生えている場所を探すと、急いでなるべく沢山の草を摘んだ。
そして、走りながら村に戻ろうとした。
しかし、帰り道で、村が見える場所に差し掛かると、何か様子がおかしいと感じる。
(……?)
もう、夜に近い頃合いだというのに、村には、明かりが一切灯っていなかったのだ。
村は、異様な静寂に包まれていた。
白梅が、急いで村の中に入ると、そこには目を疑うような、凄惨な光景が広がっていた。
(一体、どうして……)
数人の村人たちが、矢や槍のようなものに深々と刺され、血を流しながら、地面に倒れている。
そして、地面には沢山の足跡があり、家や建物が崩れていた。
村中が、血の臭いで満ちていた。
白梅の目からは、涙が溢れた。
呼吸が乱れ、腹の底から、何かが溢れ出しそうな感覚があったが、叫ぶことさえできなかった。
白梅は、目の前の光景が信じられず、呆然と、村長のもとへ急いだ。
家に戻ると、先ほどまで白梅が看病していた人たちが、何者かに深く刺されて、無惨にも死を遂げていた。
その中には、よく見覚えのある、小さな女の子の体も、うずくまっている。
苦痛を浮かべたその顔と体は、どんなに目を凝らしても、ぴくりとも動かなかった。
(紗代、みんな……!)
白梅は、鮮血が散ったその場に、力なく倒れ込んだ。
涙が止まらず、頭と視界は、天地がひっくり返ったような混乱を起こし、その場で吐きそうだった。
「しら、め……」
その声を聞いて、白梅は、弾かれたように体を起こし、家中を探してまわった。
呼吸が苦しい。眩暈がする。
村長は、家の奥で、腹を深く刺されて倒れていた。
かろうじて息をしている様子で、その目には、今にも絶えそうな光が宿っている。
「みんな……殺された……」
その声を聞くと、白梅は、膝から崩れそうになり、這いつくばって村長に近づいた。
そして、村長の体を慌てて抱え、上半身を膝に乗せながら抱きしめた。
涙で、前が見えなかった。
村長は、白梅をゆっくりと見上げ、力のない声で「逃げろ」と呟いた。
そして、白梅の腕の中で、最後の息を吐き、事切れた。
腕の中の体が、徐々に重くなり冷たくなっていくのを、朦朧とした頭が認識した瞬間、全身の血の気が引いていった。
(一体、どうしてこんなことに……)
白梅は、村長の体を、ゆっくりと地面に下ろした。
それからの記憶は、あまりなかった。
途中に、何人かの人間に襲われた気がするが、何かに突き動かされるように、がむしゃらに走ったことと、前が見えず、体が動かず、息が苦しかったことしか分からなかった。
白梅の頭の中に、悲しげな声が静かに響いた。
『あと五回……』
次のお話で、やっとお相手が登場です。