屑拾い婆さん
「あのおばさん、ヘンやねんで。こないだ、おれになんと言うたと思う?」
「??」
私は比較的耳が良いほうで、道路に投げ捨てられている空き缶やゴミを拾って回っている間にも、道ばたで私を指さしながら話す声が、細大漏らさず聞き取れます。学生風の若い男が、連れの女性に話しかけているのでした。
「チップを下さい!」
「え?」
え? わたしも「え?」と驚き思いました。男が、急に私の声色を使ったからです。
「なんと言うかと思うと、いきなり、チップをくれ、言うのや」
「ウッソー。ヤダー」
そんな話、わたしは聞きたくもありません。耳に栓をしてたい思いで、ゴミを拾いつづけました。
「なんで、おれがあんな婆さんにチップをやらなならんのや。自分は道路のゴミ拾いをしているか知らんが、そんなのおれとは何の関係もあらへん」
「それでどないしたん? チップやったん?」
「やるわけないやろ。おれ、びっくりして、何もやらんと逃げたんや。な、もう一度、試しに、あの婆さんの横、通ってみようか?」
何という失敬なアベックでしょう。二人はまるで動物園の珍獣を見るような顔で近付いて来るのです。女は笑いを堪えて、興味津々に男の影に隠れて来ます。男はわたしの前で、わざと立ち止まりました。わたしは知らぬ顔で袋の空き缶を揺さぶりながら、二人を無視しました。男は位置を変えて、私が体を起したときに、嫌やでも視線に入るように、顔を正面に向けて凝視します。女が笑いました。笑い転けながら男の手を引いて立ち去ろうとしました。わたしは癪にさわって、言ってやろうとしました。「仏様が教えたのかえ? そんな失礼な真似を!」
しかし、実際に私の口をついて出た言葉は別のものでした。
「チップを置いて行きなはれ」
六十五年の歳月を長いと言うのか、短いというのか……。正直なところ、よもや、このわたしが六十五才を迎えることになろうとは、まったく考えてもいませんでした。若いときから体が弱くて、老人と呼ばれる歳まで、このわたしが生きていようとは……。
困ったことになりました。元気に働けるほどの健康はなし、かといって、すぐに死ぬわけでもなし。迷わずにはおれません。でも、いまさら、若々しい体力は願望の対象でもなく、わずかな年金と生活保護で、細々と生きて行くことには、もうすっかり馴れています。
それでも、わたしは迷います。今日も、途方にくれてしまいました。
このごろ、どうしたわけか、私は自分を見つめる者に、チップをくれ、と言うようになってしまったのです。そう言うつもりではないのやけど、なぜか、ひとりでに口に出てしまうのです。
これを簡単に、老人ボケ、と言えばそれまでのことですけど、私には、そう単純に、理由もなく、こうした事が生じたこととは思えません。無意識に、あるいは、ボケ現象として、口に出るとしても、チップの要求ということの裏には、思い当たる記憶が二~三、あるのです。
まだ、記憶と意識がしっかりしている内に、このボケ現象の原因を、分析して、自分で納得したいとかねがね思っていました。
おりしも、今日、若い二人連れから侮辱を受けた悔しさを踏台に、能うか、否か、一つ、取り組んでみようと考えました。
しかし、癪です。ただ、健康で若い、と言うだけで、世の中を我が物顔に闊歩して、老醜を嘲笑う。あれでも、まったく知らぬ顔で、無視するだけの者よりはましやと言うことは、知っています。かって私は、主人より耳が蛸になるほど聞かされたものです。根性の悪い最悪の人種とは、人を無視・黙殺する奴、と。喧嘩を売ったり、殴りかかったりする者は、無視・黙殺を信条とする者よりは、はるかに可愛い、と。
たとえ、嘲笑いであろうと、関わりを一切断ち切ってしまう人よりは、善意な人と、考えると、少しは我慢できます。
思えば、そういう、超俗的な思想を持っていた主人の影響もあるのでしょう。その主人は他界して、もう、何処にもおりません。かれこれ、十年は過ぎましたでしょうか。……。
何か書こうと思うと、あれやら、これやら、頭の中に、取り留めもなくいろいろなことが去就します。主人の思い出のほかに、頭をよぎるのは、ある外人さんの事。そして、私の最後の仕事場であったBさんの事。極最近、知り合ったばかりのXさんの事など。
これらのことを、順序だてて読み物に構成することは、半分老人ボケの私には、出来そうにもありません。頭に浮かぶものから、順に書くことにしましょう。書いてみて、そのあとで、整理できれば、整理するとして……。
あのときの若い外人さんは、えらい考え深そうで、そのうえ、誠実な感じで、とても、えゝ人やと思います。名前は、確か、*+*+。間違っているかもしれません。最初に見かけたのは、Bさんのお宅の手伝いをしている時のことでした。留学生で、Bさんのお宅に下宿するために、京都駅に来たとき、Bさんと一緒に迎えに行ったのでした。
そして、二年後に、すっかり日本語が上手になった*+さんと、お話をしたのでした。
その時の話題が、チップについてでした。
*+さんは真剣に言いました。
「外国は、タクシーのドライバーでも、ホテルのボーイでも、マーケットの店員でも、チップあげる、それ、当り前です。どうして、日本では、あげないのが当り前ですか? 日本はチップいらない国、それ、奥さんは大変、自慢していました。でも、どうして、それが自慢になるのでしょうか? ボクには分からない」
奥さんと言うのは、Bさんのことです。私より十才も年上で、私よりも、十才は若い方です。
Bさんはかねがね、豊かな老後、充実したシルバーライフに関心を持っていました。毎週、各曜日ごとに、書道や、俳句、生け花、舞踊、と予定を決めて、お稽古に通っていました。さらに、合間合間には、旅行やら、講演会やら、老人会やらで、驚くほど多忙な日々を送っていました。そのぶん、当然なことで、家事の暇がなく、したがって、私がお給金を貰って、お手伝いに通っていたのでした。
そういうときに、Bさんが留学生の下宿を引き受けました。
「なにしろ、今は国際化の時代ですからね。外国の学生さんに来てもらって、国際化のお役に立ちたいと思いますの。そして、日本の素敵な文化を若い外国の人に、少しでもいいから、教えてあげようと思いますの」
私にとっては、人が一人増えることは、その分、私の仕事が増えることで、そのうえ、言葉は片言で通じるとは言っても、習慣の違う外人さんのこと、少々、気の重い感じがしました。でも、それは私の我侭。Bさんに言われるまま、タクシーに一緒に乗って、京都駅へ迎えに行ったのでした。そのとき、タクシーの中で、二十才前後の留学生に、Bさんは日本の素晴らしい美徳の一つとして、ノーチップの習慣を説明したのでした。
「*+さん、まず、覚えておいて頂戴ね。日本では、いっさいチップはいらないのよ。日本では、何処へ行っても、誰にも、チップをやる必要はないの。外国のように、チップなんていう、馬鹿気た無駄遣いの習慣は日本ではないの。これはとても気楽なことよ。荷物を運んでくれるからと言って、チップを考える事もいらないし、タクシーに乗っても、チップの代わりに、なんて、お釣りを受け取らずに降りるような気使いもいらないの。タクシーでも、ショッピングでも、お釣りはちゃんと受け取るものなの。
ね、とても素敵でしょう。無駄遣いも気使いもなくて、とても爽やかでしょう。これは日本人として、いささか鼻の高い自慢なの」 わたしは聞いていて、恥ずかしかった。
ここでまた、私は主人を思い出します。実は私の主人は、タクシーの運転手でした。ときどき世俗を超えた意見を語る主人でしたが、生業は、人様の足の用をする(どちらかと言えば、世間からあまり尊敬されない)仕事に従事していました。そやけど主人は、大学教授よりも高邁で深遠な哲学を持っていました。主人は言いました。
「京都でタクシーの仕事をすればこそ、分かる。日本の文化は京都で形成された。その京都には、日本文化の秘密が今もって保持されている。それを観光客を案内しながら、眺めていると、つくづく考えさせられる。日本の文化は、博物館に入るべき文化やと」
いきなり、こんなことを書いては、誰も意味が分からないでしょう。主人に連れ添っていたわたしでも、頭が悪いのに、さっぱり分からなかった。そこで、問うたのでした。
「日本の文化て、素晴らしいものやいうて、偉い人は自慢してるんやで。外人さんでも、わざわざお坊んさんに弟子入りして、仏教を勉強してるのに、それなのに、どうして、博物館に入いらなあかんの?」
「おつむの足りない時代の信仰と生活は、考えが進んだ時代に入ると、みんなお蔵入りや。仏教は古代の身分制度の中で完成した宗教や。身分制度という非人間的な社会を前提として出来上がっている。いまは、そういう古い非人間的時代を乗り越えて、全く新しい民主主義という時代に入っている。生まれながらに尊い者、支配する者、反対に、生まれながらに卑しい者、奴隷になる者、という古代の身分制度を価値のない過去のものとすることができた以上、その時代を母胎にした仏教も、当然、過去のものにしなければならないのや」
「そやけども、死んだときにはやっぱり、お経をあげてもらわなあかんし、悪い霊がついて不幸が続くときにも、先祖に成仏してもらうときにも、みんな、お坊んさんに祈祷してもらわなあかんやないの」
「そういう観念を植え付けたのが仏教や。それを呪いというのや。時代遅れの仏教は人々に呪いをかけることしかせえへん。仏教は邪教や。魔法や」
「いくら、あんたがそない言うてもな、偉い学者はんは言うてるねんで。仏教は高級な宗教やて。偉い学者で、仏教が邪教や、いうの、うち、聞いたことないし」
「仏教を高級宗教と言う者がいたら、そやつの脳は低級や。お粗末もえゝとこや」
「ほなら、仏教は低級か?」
「文句無しに低級や。仏教はどうしょうもないほど低級で阿呆な宗教や」
「大学の先生も低級で阿呆か?」
「低級で阿呆や」
「ほんなら、タクシーの運転手が高級で偉いのんか?」
わたしは、別に本気で問うていたのではありません。タクシーの運転手の考えることのほうが、大学の先生の考えより、低級なことは分かったことです。それが世間の常識というものです。しかし、主人は、真面目に言うのでした。
「地方のお寺は知らん。そやけど、京都のお寺を見ていると分かるのや。仏像を見ていると分かる。禅宗の庭を見ていても分かる。禅画を見ても分かる。仏教はどないもならんほどの、悪宗教やということが。低級やということが。最悪の宗教やということが。昔の者は、その魔法に取り込まれて、他に、何が有るのか、それさえも、見えなかった。そのために、魔法に操られて、喘いでいたのが、民衆と善良な坊主やった。善良さを持たない坊主たちは、水を得た魚よろしく、仏教の中で遊んでいた。何が正しく、何が真実で、何が、そうではないか、ということは、人の上にいて、すくすく育った者には、決して分かるものではない。身分の高い者、裕福な者、また、そういう者たちのお坊ちゃんには、真実は必要ではないからや。真実を突き止めなくても、快適に生きて行ける。そういう者で、頭のえゝ者が、大学の教授になる。そういう連中に仏教の化けの皮を見抜けるものではあらへん。その点では、彼らは阿呆や。出来合いの知識をオウム返しするだけや。反対に、ぼくらのような者が既成観念を破る。仏教のインチキと低級さを見抜くものや」
主人が本気になると、私では、手に負えまへん。矛先を交わそうとして、
「そやけど、日本の文化は、ええもんどっしゃろ? 舞踊やら、歌舞伎やら、お茶やら、生け花やら、そんなのは、仏教とは関係なく、日本の文化として、えゝもんやと思うし」
「あまりにも、仏教に真実と救いが無かったために、別のものが発達したのや。しかし、基本は身分制度や。これを超える発想はなかった。仏教が蔓延りすぎたからや。そやさかいに、日本の全ての文化は、上下の関係で構成されている。人の上に立つ者が立派で徳のある者、人の下にいる者は、下品で徳のない者、と決まっている」
「そうでもないし……」
わたしは、少し反論しました。
「……人の上に立つ人で、悪人もいるし。貧しい人でも、徳の高い人もいるし。お芝居なんかは、大抵、そういう話やし」
「そして、どういうことになるのや? 悪代官は、その罪が子に及ぶ。善良な貧民は報われて豊かになる。その子にも果報が及んで、人の上に立つ者となる。そうやないのか?」
「そりゃ、そうやけど」
「そやから、低級やというのや。こういう発想のもとで、日本の全ての文化は構成されている。これは古代の身分制度の残滓というのや。それが日本人の意識の上で、未だに克服払拭されていない。はっきり言えば、日本の文化とは、人間差別の文化なのや。そやさかいに、博物館へ入れなあかんいうのや」
どない、どっしゃろ。皆さんには分かりますか?
もちろん、頭の悪いわたしには分からしまへん。理屈では、ヘエ、さよか、と、感心はしても、一向に、分かった! と来いへんのどす。そう聞いても、やっぱり、お墓参りはしたいし、お坊んさんの話を聞くと、ほんまやと思うし。それを、主人は呪縛やと言うのでしたが……。
主人とはよく、そう言う難しい話の相手をさせられました。それでも、別に頭が痛いとも思いませんでした。そういう話でも、主人と二人で、ビールでも呑んでいるのは、楽しいものでした。なにしろ、主人は一度仕事に出ると、休憩に二度ほど立ち寄る以外は、夜中になっても丸一日、帰って来まへん。
子供のいない私には、一人で過ごす夜は、言いようもなく、寂しいものでした。やっと、一日が終わって、朝早く帰って来たときは、世間とは裏腹に、ビールで乾杯して夕食でした。
「な、見てみい。このごろ、あの婆さん、いよいよ変やで。なにやら知らんが、いつもブツブツ言うてるねんで」
また、例の若い男女です。男の指摘に、女は幸せな笑みをこぼしながら言うていました。
「可哀想ね。一銭にもならないゴミ拾いなんかしないで、お花を摘むとか、他のお年寄りと一緒に、ゲートボールをするとか、すればえゝのに」
「いや、あれで、金目の物を選り分けて少しは金にしてるんやで。そんな生活をしてる婆さんに、お花やゲートボールなど、できるわけないやんか。そんな身分の婆さんやあらへん」
「世間の人たちとは、世界が違うのやろうね」
「見たとこ、だいぶん耄碌してるし。こないだはな、苦労して拾ったゴミを、歩きながらバラバラ落してるねんで。落とすぐらいなら、最初からひらわなえゝものを。そうかと思うと、立ち止まって独り言を言ったり、ニヤニヤ笑ったりするのんや」
腹は立つけど、この男はなぜか、よく私を観察しているのでした。この私が、あの男にはそんなに興味をそそるのやろか? そう思うと、つい、おかしくなりました。すると、
「気味悪い。ほんまに笑ってる。やだ、気味悪い!」
人に、自分というものを「気味悪い」と評されるのは、大概、神経にこたえるものです。
「しかし、なにやら、曰くありそうやけどな。お前、いっちょ聞いてみるか?」
「何をよ」
「あの婆さんの考えていることを。何を思いだして、笑ってはるんですか? 言うて、聞いてみるか?」
どうやら、男のほうが、いくらかマシのよう。その点、女は……。
「やだよ~」
と、可愛い素振りで、薄情ときている。
「ああ、あ、危ないな。道のあんなとこで、立ち止まってからに。お~い、おばあさ~ん! そんなとこに立っていると、車に挽かれるで! 死ぬでぇ」
「死ねるものなら、死にたいよ」
私は振り返って、そう言った、つもりでしたが、またしても、わたしは別のことを言っていました。
「えゝから、えゝから、取っておきなはれ」
女は腰をひねって笑った。男がわたしの言葉尻を取って問いかけた。
「何を取っとけ言うのんやあ。ゴミならいらへんで」
返事をしてやりました。今度は、思った通りのことが、口に出ました。
「お前にやるチップはあらへん。欲しければ自分のキンタマでも取っとけ」
「えゝから、えゝから、取っておきなはれ」
わたしは無言で言いました。一万円のお釣りを、運転手さんへチップにあげたのでした。
Bさんの、日本のノーチップ習慣の自慢話を聞いたその後のことでした。
わたしはBさんのお手伝いに来ているときは、買物や、その他の雑費用に、一万円とか、三万円とかの現金を、いつも予め渡されていました。したがって、タクシー代の支払いも、私の仕事でした。京都駅から伏見の深草までは、精々、千二~三百円。
運転手さんが驚いて、何か言おうとしているのを手で制して、荷物おろしが終われば早く行きなさいと追い払いました。
Bさんは留学生の世話で、しばらくは気付かずにいました。よく、口の回る方で、自分のおしゃべりに気をとられているのでした。あとで、お釣りを貰うのを忘れたと、ごまかせばよいと考えていました。鈍感な私の性格は、こういうとき、いたって重宝でした。当の私自身が、平気の平座でしたし。それに、わたしは、買物などで釣銭を貰うのを、いつも忘れるのが常でしたから、また、私の不手際ということで片づければすむことでした。
しかし、この時は少し勝手が違う結末になりました。タクシーから降ろした荷物を見て、
「Aさん、荷物が重いのだから、運転手さんに手伝って貰いましょうよ」
と振り返るのでした。でも、すでにその時は、私に早く行きなさいと合図されて、タクシーは、ブーと排気音を立てて、走り去ったあとでした。
「まあ、思いやりの無い運転手ね。今時のタクシーは親切心がなくてダメね」
わたしは、本真にね、と相づちを打ったのですが、Bさんは何を思ったのか、
「Aさん、お釣りはちゃんと貰ったでしょうね?」
と、問うのでした。
「ええ、もちろん、一万円わたして、そして、お釣りは、あれ?」
仕方がありません。このあとは、私の精一杯のとぼけ演技です。
「お釣り? あら、どないしまひょ。まあ、いややわ。わたし、また、忘れてたわ」
Bさんの顔が見る間に険しくなりました。
「御免なさい。私が、迂闊で。運転手さんが一万円からでは、お釣りが、言うていたものやさかいに、ええねん、ええねん、いそがへんから、ゆっくり、言うてやったのやけど、ひっとしたら、チップと思ってしまったのやろうか。どないしまひょ。タクシー、わたし、追っかけまひょか?」
とゴチャゴチャいって、ごまかそうとしたのですけど、今度ばかりは、金額も嵩むためか、Bさんは、怒りの表情を消しませんでした。そして、言うのでした。
「お客様の前だから、あまり言いたくないけど、今度、こういうことがあれば、二度とあなたをお手伝いに呼ばないからね」
そして翌日のこと。
「外国のお客様から聞きましたよ。あなたはわざと、お釣りを受け取らずに、運転手に早く行きなさいと手で合図したそうね」
二言は有りませんでした。
「お蔭で、私の信用が揺らぎました。日本でも、やっぱりチップは必要ではないかて夕べ問われたのよ。まったく、どうしてくれるの。あなたが蔭であんなことをしたから、日本人もやっぱり、チップを貰うのが嬉しいのに違いないて、昨日、言われたのよ。日本の恥じではないの。チップのいらない国は世界中で日本だけなのよ。日本の誇りなのよ。それを私が話したその横から打ち壊すなんて、恥ずかしくないの。あなたがそんなにひねくれた人とは知らなかったわ」
そして、お払い箱となったのでした。それいらい、私は何処からも声がかからなくなって、人様のお手伝いの仕事は、終わったのでした。
仕事の口が無くなってからというもの、私は、寝たきりになるまでの間の、自分の充実をどこに見つけようかと、考え続けていました。散歩をしたり、小鳥の餌台を作ったり、テレビを見たり、それでも、なにか、満たされない。
そうこうしている内に、三年は過ぎたでしょうか。三年ぐらいは、なにもしないうちに、過ぎます。散歩の帰りに、その日も、何気なく、Bさんのお屋敷の前を通りました。あの時の留学生はどうしたやろう、と、Bさんの前を通るたびに、いつも思いだします。なんというても、仕事から無縁になったのは、あの外人さんが直接のきっかけでしたし。
でも、いままで、一度も会ったことはありません。あるいは、Bさんの家には、もういないのかもしれないと、考えたりしました。
このときも、ぼんやりと、見つめて通りすぎようとしていました。すると、
「もしもし?」と、うしろで声がしました。私に声をかける人は、私が落し物をしたときぐらいなものです。
「あ、おおきに」と返事をしかけて、振り返ると、背のあまり高くない、外人さんでした。
「やはり、そうですね」
ニコニコと笑っています。あの時の留学生でした。
「あら、あのときの。まあ、覚えていたのですか?」
「ごめんなさい。名前を覚えていません。でも、メイドさん、僕が、来たときのメイドさん。次の日、もう辞めたメイドさん、よく覚えています」
「お元気そうで。今も、こちらへ?」
わたしは、嬉しかった。でも、それは通りすがりの、旧知への懐かしさと、感激でした。
「どうぞ、頑張って、勉強されてくださいね」
と、平凡な挨拶で、別れようとしたとき、その外人さんは、私の手をとって言うのでした。
「お話したいのですけど、お聞きしたいのですけど、付き合ってくれませんか?」
付き合って? まあ、なんて、優しく、切ない言葉でしょう。きっと、まだ、日本語の使い方に馴れていないからでしょうと、わたしは、自分で納得して、うなづいたのでした。
「僕は日本のノーチップについて、考えています。研究しています。卒業論文に書こうと思っています。きっかけは、Aさんです。日本に来た最初に、Bさんから、チップのいらない日本の話を聞いて、そして、Aさんがタクシーの運転手さんに、そっとチップをあげているのを見て、僕はそれがとても、印象的で、少しショックで、それいらい、頭から離れずにいます。Aさんはチップについてどう考えていますか? 教えて下さい」
*+青年について入った小さな喫茶店で、彼は、私がドキドキしていたこととは無関係の、味も素っ気もない話を始めたのでした。でも、それは私にとって、重大な記憶でした。
久し振りで、私は真剣に考えて、応えました。
「正直なことをいえば、チップを貰うのはとても嬉しいの。でも、欲しいと言ってはいけないし。求めてもいけないことに成っていますし」
「他の国では、当然なこととして、請求します。欲しいものなら、どうして請求しないのですか?」
「それは、きっと端ないことになっているからでしょう」
「ハシタナイ?」
「欲しいものを欲しいと言わないのが美しい事となっているのです」
「わからない。Aさんがチップをあげている光景、僕はとても美しいと思いました。それをもらって感謝している運転手さんの表情も、とても美しかった。欲しいと言わないのなら、言われなくても、進んでチップをあげればいいのに、どうしてか、チップをあげないことが、チップをあげないでいゝ習慣が日本の誇りと言う。本当に、僕はその理由がわからなくて、悩みました」
「私には、お金持ちたちの都合やと思っています」
「ツゴウ?」
「どういえばいいのか、お金持ちはみんなケチで、がめつくて、自分勝手なものと、貧乏人は思っています。それをいうと、貧乏人の僻みと笑われますから、あまり言わないだけで……」
「遠慮ですか?」
「でもない。ただ、お金持ちや身分の高い人たちから、ひねくれ者、恥知らず、と言われると、人間として生きる資格のない者と、見做される感じがするので、自分から自分の欲しいものを、言わないのです。それと、お金は尊いものですから、尊いものを持っている人に、それが欲しいと言うことは、人の持っている尊いものを欲しがることで、それは悪いこととなるからです。人の持っているお金という大変に尊いものを只で欲しがるものではない、というわけです」
「日本人は、お金が一番に尊いものと考えているのですか?」
「そうかもしれません。いえ、たしかにそうです。神様も仏様も、お金ほどには尊いとは考えていないのが日本人やと、私は思います。こんなことをいうと、また、ひねくれ者と軽蔑されるのですけど」
「チップをやらなくてすむことが、自慢になるというのは、そのためだったのですね。神様よりも有難く尊いと信仰しているお金を、使わずにすむから、それが、嬉しくて、自慢したくなるのですね。では、どうして、日本人は、そんな考えに凝り固まってしまったのでしようか?」
「堪忍。そんなこと、私にはわからへん」
「日本人て、謎ですね。なんだか、寒気がします」
わたしも、ショックでした。西洋の人たちは、お金を日本人ほどには、有難いものとして、信仰してはいないのでしょうか。それこそ、信じられません。なんと言っても、お金より、価値有るものはないはずですし。
もし、仮にお金よりも尊いものが有るのなら、そちらが、お金より大切と信じられるのなら、その時こそ、お金に執着しなくて、チップも気前よくやれるのかもしれない。チップて、大抵は、下積みの仕事をしている人に、あげるもの……。哀れだから? 可哀想だから? それとも、感謝して? お金を信仰している人が、下積みの人に感謝して、と言えば、嘘に決まっているし……。
外人さんに御馳走になって、別れたあとも、私は考えつづけていました。
何もかも、すべては、世の中で成功して、地位や身分、財産、お金をたっぷりと手にした人たちのために、出来上がっている。それはなにも今更、感心しなくても、とうの昔から分かっていること。それなのに、今さらのようにショックを感じるのは、やはり、私の神経が、脳細胞が、そろそろ摩耗して来たからでしょうか。人生の成功者とはいえない下積み仕事をしている人たちに対してさえ、それを誇示する。いや、そういう人に対してこそ、自分の成功を誇示したがる。いや、それも違う。隔絶……、そう、これは、彼と我との隔絶に違いない。尊いお金というのなら、それでよい。しかし、その尊い貴重なお金を、貧しい者には決して只ではやらない、というその執念。もし、同じ人間としての感情の共有があれば、そのような執念は恥ずかしくなるはず。それなのに、下積みの人々へ、自分が、現に、今、世話になったばかりの人へ対しても、その執念を優先させて、それを恥とするどころか、逆に満足し、誇りにしているとすれば……。
年収何千万も、何億も手にする人が、タクシーに乗って、釣銭を受け取って行く! 荷物を運ぶ人に、一枚のお札さえ惜しむ。その人たちは給料を貰っている、ですって? ではあなたが、その給料相当額で生活して、残ったお金を町に行ってバラ蒔きなさいよ。
わたしは、それ以来、世間のきれいごとがすっかり嫌いになった。わたし自身を綺麗に見せようとすることさえ、疎ましくなった。
散歩の替わりに、わたしは、道ばたのゴミを拾って、そのゴミをまた、別の道へ捨てて回るようになった。
「おばあちゃん、袋から、ゴミがこぼれていますよ。折角、町を綺麗にするために、拾っているゴミが、そうしてこぼれていては、おばあちゃんの苦労が水の泡ですよ」
「水の泡?」
「そうですよ。落としてしまっては……」
「では、あなたが拾いなさい」
「?」
「一万円、持っているでしょう」
「?」
「それを私のポケットに入れなさい」
「?」
いい年輩の、裕福そうな男は、首を傾げて行ってしまった。
言っておきますけどね、私のゴミ拾いは、町の美化のためではありません。拾ったゴミは、また、落とされます。今度は、金持ちたちの家の前に……。
一文にもならないゴミ拾い。人は、アルミ缶などをより分けて金にしていると噂しているようですが、わたしは、お金にしたくて、町のゴミを拾って回っているわけではない。疲れて、安アパートに戻ると、わたしは、いつか、主人の帰りを待っていた昔の自分に戻っているのでした。
主人が帰ってきて、まず、わたしが期待するのは、一日のチップでした。主人はいつも、お客から戴いたチップは全額、わたしへのお土産として、渡してくれました。
「釣銭に五千円準備して、最後にその五千円を引いて、残った分が、お客から貰ったチップの合計というわけや」
そう言って、ポケットをひっくり返して、そっくり渡してくれます。そのチップで、私たちは、ビールを飲むことにしていました。
多いときは、二~三千円、少ないときは二~三十円。チップを仰山渡してくれるお客さんには感謝でした。
「二十円でも、釣りはいらん、言うてくれる客は嬉しい。それが積もり積もってビールを買うことが出来るようになるねん」
と主人は謙虚でしたが、わたしは、二十円なんて、ケチを言わず、ワンメーターに千円出して、お釣りはいいよ、というお客のいてくれることを、留守を守りながら祈るのでした。
「全体に、京都の客はケチやさかいにな。東京あたりから来た客のほうが、ようけチップをくれる」
京都の客はケチ。そうやと思います。
「面白いことにな、何億円、何百億円という、スケールの大きな仕事の話に夢中になっている客にかぎって、二十円の釣銭を、でっかい手を伸ばして、ジイッと待ってるねん。その反対に、貧乏垂れと一目で分かるおっさんが、釣りはいい、言うて降りて行く。苦労を知っている人やな、と、僕はかえって、尊敬を覚えるねん」
「? その貧乏垂れも東京の人?」
「あほ。東京の貧乏人が、京都に来れるか。しかし、考えてみると、そういう貧乏人ばかりが固まって住んでいる土地の人たちは、京都の人とは言えへんかも知れないな。悪い意味ではなくて、良い意味で。エゴイストな自己中心的な京都人とは違う、心の暖かさが、見かけとは裏腹に、そういう人には有るように感じられるし」
自分たちでも、乏しい収入の中から、たまたま乗ったタクシーの運転手に、釣りをチップに降りるというのは、そのチップが、運転手の生活に大きなウエイトを占めることを知っているからやと主人は言っていました。そして、その期待と喜びが我が身のように分かるからやと。
ほんまに、戴いたチップの積み重ねで、私たち夫婦は、ビールを分かち合って飲んでいたのでした。そういう暖かい人たちへの感謝の気持ちが、いっそう、ビールを美味しくさせていました。
でも、私にはまた、別の記憶が蘇ります。
「チップを期待するなんて、さもしいわね。貧乏人て、これだから嫌や。恥じよ、恥!。チップをやらない日本の習慣は、人にそういうさもしい貧乏人の恥をかかせては失礼だから、という配慮があるからなの。だから、一円でも、ちゃんと釣り銭を貰って行くのが、人への礼儀、となるの」
わたしは鈍感なのでしょう。恥でも、かまへん。ビールが飲めて、蛸焼きの当てでも買えるほどのチップが、今日も有りますようにと、祈りながら、主人を仕事へ送り出していたのでした。
そして、一日、家事やら買物やらで、時間を潰したあと、夜のテレビ番組を、ひっくりかえし、ひっくり返し見直しては、面白そうな番組で深夜まで過ごして、明け方近くになると、主人の帰りに備えて、食事の準備でした。遅くなっても、必ず主人は帰って来ました。でも、もう、十年以上も、主人は帰って来ません。それは、分かっているのやけど、でも、夜になると、わたしは、また、主人の帰りを待つのでした。
私の心は、ひどく分裂しています。それが分かります。朝になると、私は眠る。昼過ぎに起き出して、食事をして、そして、散歩に行く。毎日、ただ、自分のために散歩をするのではなく、麻袋とツマミ棒を持って、空き缶やタバコの吸いがらなどを拾って回っていれば、それは町の美観に貢献できると言う喜び。人の視線も、ただ、冷たいばかりではないことが感じられる。やがて病で身動き取れずに、病院へ送られて死ぬまでのしばらくの間、散歩の出来る間、ゴミを拾って回ることで、いくらかでも、人様に喜んで貰えるならと、それが心の張りになって、楽しいと思う。
でも、時々、意地悪をしたくて辛抱出来なくなる。拾ったゴミを、老人ボケを装って、美しい住宅街でこぼして回るときの楽しさ。
それでもわたしは、人様に迷惑をかけずに、人様に感謝してと、いつも心がけてはいます。だから、通りを渡るときには、車の間合いを計って渡ります。大抵は、私の間近でキキッーと大きな音をたてて、車は止まりますけど……。
それは昨日のことでした。
「婆さん、死にたいのか!」
と、トラックの高い運転席の窓から、可愛気のない顔を出して、憎まれ口を叩かれました。わたしは、別段、腹も立たない。
「おゝきに、おおきに。ほれ、チップをやるからに」と、十円を差しだしました。ホンマは、せめて百円やりたかったのやけど、ポケットには、十円玉しかありませんでした。やはり、十円ではいけなかったようで、
「あほ、たったの十円、なに考えとんじゃ」 と、またしても怒鳴られました。
「あれあれ、仏さまでも、あたしゃ一円しかやんないよ」
と、私にとって、十円の意味の大きさを説明しょうとしたのでしたが、
「どうでもええから、そこをのけ! ド阿呆。耄碌婆あ!」
声の圧力で、わたしはヨロヨロと後ずさると、トラックは轟音と臭い煙を辺りへまき散らして通りすぎて行きました。すると、そのとき、私のすぐ近くで、車に抗議している男の人の声が聞こえました。
「昨日は何処にいたのか言うてみろ。清水寺は山の中で、寒い寒い。お前は知らないか、知らなれりゃ、お前の母さんに聞いて来い」
何を言っているのか、わかりません。大きな声で、道行く車に、叫んでいます。さらに、つづきます。
「総理大臣も知らないぞ。お前一人が五百円持っている。五百円は十円よりも少ないと思うのか。清水寺へ行って聞いて来い」
わたしは思いだしました。主人から話に聞いていたのです。道行く車に向かって、なにやらしきりに叫ぶ男がいることを。その人でしょうか? 男は怒っているようです。しかし、言葉の意味が分かりません。わたしは、感慨無量な思いで、その男の人の側へ行ってみました。
「風の吹く日に行って見ろ。木の葉が落ちる。車も落ちる。お前の頭は石頭。車に石を投げて見ろ。頭が割れて、お金がいっぱい落ちて来る。稲荷の狐が手をたたく。お前の車も手をたたく」
いつ終わるのか、その人は連綿と朕分かんぷん、意味不明な言葉を機関銃のように浴びせかけています。わたしは、そっと声をかけてみました。
「ねえ、あんた、もういいから」
きっと、この人は、私がトラックに曳かれそうになったのを見て、抗議しようとしたのに違いないのです。それが、奇妙なことに、抗議の言葉とならず、ただ、思いつくままの言葉を吐き出すことで、意思表示をしていると思えたのでした。
男の人は、私を見ました。少しはにかんだ笑みを見せて、再び、脈絡のない言葉を連射しながら、歩きはじめました。
わたしも、その後に付いて行きました。いつか、わたしも、その男の人にあわせて、叫んでいました。
「ゲートボウルが楽しいか。ゴミ屑拾いが楽しいか、それよりもっと楽しいものは、有り金はたいてビールを飲むことや。ビールを飲むのは貧乏人。貧乏人の楽しみは、自殺をするよりまだ楽しい……、……」
若い男女が……、そう、あの例の二人が、笑うことも忘れて、私たちを眺めていました。愉快々々。それはとても愉快なことでした。
(了)
いつごろ?書いたものか、判らない。
作者が京都近鉄に勤務していた頃だと思われる。
紛失したと思われていたのが、たまたま見つかった。
その頃は、多くは未完で終わったいたのだが、これは?(了)まで書き込んでいた。