男心をくすぐるねぇ
桃ジュースを飲み終わると、わたしはスタジオの前の扉で立ちすくむ。
……園江一花が演技ををするのは無理よ。
これがわたしの出した結論だった。
深く深く深呼吸をすると、わたしは意を決してスタジオの扉を開く。スタッフたちの視線が一斉にこちらへと振り向く。
呆れ、不安、怒り、そして僅かな期待。様々な他人の感情がわたしへと流れてくる。
「遅くなり、申し訳ありません! 園江一花、戻りました」
今日一番の大声を出し、わたしはライトの照らされる舞台へと足を進めていく。
わたしの名前は一花。他者に流されて生きてきて、頑張るよりも先に諦めてしまう女の子だった。その存在を消す。
「……スイッチ、オフ……」
自分を守るため、感情の高ぶりを押さえてわたしが人形となるための合図だ。
顔から強ばりが消え、僅かにあった表情すらもストンと落ちる。不安を隠すように一歩一歩、慎重に進んでいた足は、ロボットのように規則的な歩き方へと変わった。
からっぽの人形になることは、いつもやってきたことだ。こんなこと造作もない。
――――違う。お前が好きな男……夏輝だ。
夏輝さんの言葉を脳内で再生する。
「わたしが好きな人は熊坂夏輝」
ボソリと誰にも聞こえない声量で呟いた。視線の先に夏輝さんを見ると、胸の奥がチリチリと痛む。
――――俺とお前はどんな格好をしている? その意味を良く考えろ。
「夏輝さんは二十代前半の男性。仕事帰りの会社員」
わたしは立ち止まると、壁に立てかけてある鏡を遠くから覗く。
身長170センチ、年齢17歳。髪をゆるく巻いたのは、今日が特別な日だから。黒のシンプルなAラインドレスを着たのは、年上の好きな人と少しでも釣り合う女性になりたかったから。ヴァイオレットのアイシャドウとボルドーのリップを付けたのは、大人っぽい自分になるためのお守り。
「無垢であり、大人に憧れ、明るく積極的。恋する乙女であり、小悪魔でもある。男性たちが夢に見るような女の子」
プログラムをインストールするように、自分の中に組み込んでいく。
歩き方は軽快になり、顔は微笑を浮かべている。暗かった瞳は生き生きとしているが、どうじに艶っぽさもあった。
「もう、大丈夫かい? 一花ちゃん」
「はい!」
いつもの無表情は消え、満面の笑みで答えた。橋本監督は興味深そうにわたしを見てニヤリと笑うと、すぐにスタッフへと指示を出す。
わたしはライトの当たる白い背景の舞台へと登ると、夏輝さんと向き合った。
「今度こそ演技できるんだろうな」
「もちろんです!」
「上等だ」
3・2・1と撮影のカウントダウンが終わり、カチンッと音が鳴る。
わたしはゆっくりと夏輝さんに近づくと彼の頬を撫でた。サラサラとした亜麻色の髪が手に触れ、心の奥が熱く、愛しいという感情が溢れてくる。
けれど同時にわたしだけを見て欲しい、この人を独り占めしたいというドロドロとした感情が芽生える。
……こんなわたしを知って欲しくない。でも、これだけあなたを愛していると知って欲しい。
そう思ったら身体は自然と動き、夏輝さんの肩を押していた。決して強い力ではなかったのに、夏輝さんは容易く私に押し倒されている。
夏輝さんは驚き、呆然とわたしを見つめている。
「……あなたが好き」
純粋で、しかし、独占欲の篭もった言葉をかけると、わたしは夏輝さんのワイシャツから覗く鎖骨をサラリと撫で、彼の身体に覆いかぶさる。
夏輝さんと身体を合わせ、唇に顔を近づけると同時にムスクの香りに包まれる。
……あなたが好き。だから、わたしを見て。もう子どもじゃないって知って。
唇が合わさる寸前、今度は夏輝さんがわたしの頬に手を当てた。
「……一花」
は、初めて呼び捨てで呼ばれた!?
慌てて夏輝さんの表情を見れば、彼は愛しいという感情いっぱいに艶然とした笑みを浮かべていた。驚いたわたしは、顔を上げて彼から視線を外す。
顔が熱い。心臓がドキドキいっているよ!
「キス、してくれないの?」
「しません!」
「俺はしたい」
そう言って夏輝さんは私を引き寄せて抱き込んだ。ピッタリと身体が寄せ合い、わたしの心臓の音が彼に聞こえていないか心配だった。
……どうしよう。今のわたし、一花に戻っている!
名前さえ呼ばれなければ、わたしはあのまま相手役を演じ切れていたはずだ。これでは、休憩前と同じ状態になってしまう。
焦る心を誤魔化すように、夏輝さんの首筋へと顔を埋める。ムスクの酔いそうな香りに頭がクラクラする。
「はい、カット!」
「え?」
橋本監督の声で、現実へと引き戻される。
「終わりだよ、一花さん」
最初に会った時のような丁寧な口調で夏輝さんが囁いた。
ピッタリと抱きついた自分の姿に、わたしはサッと顔を青ざめる。押し倒しているし、暑苦しいし、重いはず!
「あ、ごめんなさいっ」
わたしは急いで夏輝さんから離れ、ドキドキと高鳴る胸を押さえて必死に呼吸をする。
……終わりって、今のでOKってこと? わたし、途中で演技を止めてしまったけど。
グルグルと思考を巡らせていると橋本監督がパンッとわたしの背中を叩いた。
「いい絵だったよ! 特に最後の色気のある演技から、年相応の女の子に戻って照れるところ。男心をくすぐるねぇ」
「あ、ありがとうございます」
橋本監督やスタッフさんたちにお礼を言っていると、今まで壁際で佇んでいた花蓮さんがわたしの前にやって来た。
「一花。初仕事にしては、なかなかだったわよ」
「ありがとう、花蓮さん」
「でも、夏輝ちゃんにまんまと転がされちゃったわね」