メ、メリークリスマスですっ
花蓮さんの真っ赤な外車はクリスマスイブの街中を颯爽と走り抜け、繁華街から少し離れたビルの駐車場へと入っていく。
慣れた様子で車を停めると、花蓮さんはシートベルトを外して後部座席を覗き込む。
「さて、一花。スタッフへの挨拶はしっかりやるのよ。仕事っていうのは、信頼関係が重要だから」
「どのような挨拶が必要なんでしょう?」
わたしはアルバイトすらしたことのない世間知らずの人間だ。まして、芸能界のような特殊な業界の常識は想像も付かない。
……花蓮さんに恥をかかせる訳にもいかないし、頑張らなくちゃ。
「スタジオに入ったらまずは、おはようございますって言うのが常識よ。その後に監督とかにアタシが声をかけるから、そうしたらプロダクション名の後に名前、最後によろしくお願いしますって愛想を振りまけば良いのよ」
「……難しそう」
笑顔すらできないわたしが、愛想を振りまける気がしない。
「大丈夫よ。礼儀正しく、謙虚に。こうしていれば、表だってイチャモン付けてくる馬鹿はいないから」
花蓮さんは得意げに言うと、ストールを羽織り車を降りる。わたしは慌てて花蓮さんに続いた。
ビルは7階建てで、いくつもスタジオがあるらしい。受付で『第二スタジオ』と書かれた名札をもらうと、そのままエレベーターで2階へ上がる。
「……静かなところですね」
2階に上がっても、話し声一つしない。閑散とした光景に意表を突かれた。コンクリートの壁が広がり、鉄製の大きな扉があるだけだ。
「そう思う? 静かな現場なんて、存在しないわ。いつだって予想外の連続よ」
花蓮さんは重い扉をゆっくりと開ける。
すると静かさは消え、一気に喧騒が広がった。
「カメラの配置はどうなっている!?」
「完了しました!」
「照明もっと足して!」
スタジオの中では、たくさんの人たちが忙しく動いていた。中央に置かれた真っ白い舞台には、眩しいほどに照明が当てられている。
これが撮影現場。なんという迫力だろう。
気圧されるわたしとは違い、花蓮さんは堂々と一歩を踏み出した。
「メリークリスマスッ! 聖夜に寂しく仕事をしているみんな、元気にしているかしら?」
「……おはようございます」
花蓮さんの挨拶は、先ほど聞いた芸能界の常識と異なる気がする。わたしは小さく縮こまりながら、花蓮さんの後ろで頭を下げた。
「そこはメリークリスマスでしょ、一花。元気よく、さん、はい!」
くいくいと花蓮さんに脇腹を突かれ、わたしはスタジオに響き渡るように声を張り上げる。
「メ、メリークリスマスですっ」
恐る恐る周りを見渡せば、先に来ていたスタッフ全員の目が点になっている。
……絶対にこの挨拶は常識的じゃない!
「おや、蓮ちゃん。プロデューサーから聞いていたけど、本当に来たんだ」
野球帽にジャージ姿の中年男性が、花蓮さんに話しかける。どうやら、知り合いのようだ。
「ふふん。クリスマスイブにアタシみたいな女神に会えるなんて幸運よね」
「相変わらずの自信家だなぁ。ご機嫌なのは分かったけど、早く後ろの代役候補を紹介してくれ」
わたしに視線が集まる。背筋を伸ばし、スゥッと深く息を吸った。
「ツバキプロダクションから参りました。園江一花と申します。未熟者ですが、本日はよろしくお願い致します」
90度でお辞儀をして顔を上げると、花蓮さんが眉間に皺を寄せていた。
「堅いわよ、一花!」
「でも、挨拶は礼儀正しく謙虚にって……」
「フレッシュさが足りない! アンタ、本当に女子校生なの!?」
もー!と憤慨する花蓮さんの肩を、中年男性が叩いた。
「まあまあ、落ち着けって。……一花ちゃん。今回のCMの監督を務める橋本だ。園江ってことは、蓮ちゃんの関係者かい?」
「んふふっ。一花はアタシの娘よ! 若々しいところとかそっくりでしょ」
「正確には養女です」
冷静に訂正すると、監督は腕を組んで考え込む。そして、わたしを上から下までじっくりと見た。
「……ふむ。一花ちゃん、身長は?」
「170cmです」
「瞳の色が変わっているようだけど、ハーフかな?」
「母方の祖父がアメリカ人らしいです」
「今まで何か作品に出た?」
「いいえ。今日が初めてです」
淡々と監督の質問に答えると、彼はにいっと不気味な笑みを浮かべる。
「合格だ。メイクに入ってくれ」
監督がそう言った瞬間、近くにいた女性スタッフたちがギラリと目を光らせた。