七夕なんて信じない 後編
二人は車で色々なところに出かけた後に夕食を終えると、帰路についた。
「予報通りよく晴れてますね。街の光でよく見えないけど、一応あの辺が天の川かなっていうのはわかるもんですね」
「ん、たしかによく見えないな。せっかくの七夕なのに」
十字路にさしかかると、笹原はマンションへの帰り道として本来は左折するはずのところを右に曲がった。
「あれ、どこ行くんですか?」
「夕雲くん、この後も暇でしょ」
「はい、暇ですけど」
「ちょっと天の川観たくなってさ」
二人を乗せた車は郊外へと向かった。細い道路を辿って小山へと登り、車を停めると、二人は草はらに降り立った。向こうには住んでいる街の光が、夜空には綺麗な天の川が流れていた。
「意外と見えるもんだね。このあたりでも」
「綺麗ですね」
二人は草の上に足を投げ出して座ると、しばらく黙って天空を眺めていた。
七夕の翌日、日曜の朝。笹原は珍しく早く起きた。早くといっても九時ごろだが、それでも笹原にとっては十分早起きだ。
ベッドから起き上がると、隣には夕雲がいた。
「夢みたいって、こういうこと言うんだろうな」
笹原は目を細めると、健やかに眠った夕雲の頰を指先で優しく撫でる。
夕雲が目を覚まして時計を確認すると、もう時刻は十時を過ぎていた。見慣れない、でも知っている部屋。夕雲が昨日の事を思い返していると、笹原がキッチンから両手にコーヒーを持って現れた。
「おはよう、夕雲くん」
笹原はコーヒーをテーブルに置くとベッドに座っている夕雲の横に座り、やわらかい声で笹原に呼びかけた。
「おはようございます、笹原さん」
挨拶を返した後、少しためらいながらも夕雲が続けて口を開く。
「夢みたいって、こういう事を言うんですね」
「それ、私も起きた時思った」
互いの目が合う。二人は体を寄せ合った。
「コーヒー冷めちゃうよ。笹原さ……」
皆まで言わさずに、笹原が夕雲の口を塞ぐ。外からはかすかに蝉の鳴き声が聞こえ始めていた。
蝉の合唱に混じって、ベランダに吊るされた風鈴が涼しげな音を奏でる。カーテンをはためかせて網戸から少しぬるい風が入り込んでいる。
「そういえばさ」
「何ですか?」
いつも通りタンクトップ姿でアイスを舐めながら笹原が声を発すると、ベッドに座っていた夕雲が飲んでいたサイダーをテーブルに置き、笹原のほうに目を向けた。
「七夕の日の朝、あのとき夕雲くんからメールくれたじゃん。あれってどういう風の吹き回しだったのかな」
「あー、そうでしたね」
夕雲が照れつつ相槌をうつ。
「私は年甲斐もなく一瞬だけ七夕パワーかと思っちゃったけど、あ……」
笹原はあの時の七夕の願い事の事をついうっかり口にしてしまい、顔を赤くする。動揺した笹原は上手いことバランスを保っていた溶けたアイスの雫を床に落とし、木目のフローリングを汚してしまう。
「あちゃー、ティッシュティッシュ!」
笹原の催促を受けてそばにあったティッシュボックスを手渡すと、夕雲は嬉しそうにそんな笹原を見つめた。そして、少し遠慮気味に続いて口を開く。
「えっと、実はベランダに笹原さんの短冊が落ちてて。それで、じゃあ僕からも行こうって思って」
「え。うそ」
願い事が届いたのは天などではなく、本人だったのだ。笹原は少しでも七夕の願い事の事を信じかけたのが前より一層ばかばかしく感じた。
「僕も驚いたよ。それにしても、付き合ってもないのに結婚っていくらなんでも気が早いんじゃない?」
「あ〜、その事はわすれてくれ」
笹原はアイスを持ったまま、もう一方の手でタンクトップを掴み、上気した肌にパタパタと風を送り込む。
「うん、でも笹原さんが僕のこと好きだっていうのが勘違いじゃないって分かって、あの時何だか安心したな」
「もっと早く気づいてよ、まったくもう」
笹原は笑いながらつっこむと途中まで食べていたアイスをぱくりと口に入れ、残った持ち手の棒をゴミ箱へと放り入れる。そして、夕雲の方に歩み寄ると屈んでまっすぐ目を合わせた。
「夕雲くん」
外の騒がしい音に混じって、部屋に水音が響く。
「ん、バニラアイスの味」
「おいしかった?」
「すごくね」
二人の初めての夏は始まったばかりだ。