7.侯爵令嬢と夜会の洗礼
お待たせしました!
リズベットは、唸った。後ろには、侍女のアンが静かに控えている。リズベットに口出しをするつもりは無いようだ。それどころか、存在を隠すように息を潜めている。話しかけられることを怖がっているのだとリズベットは推理する。
リズベットは、もう一度唸った。いや、既に五度目である。
目の前にはレオナルドからの贈り物である華やかな水色のドレス。その隣には新しく作った菫色のドレスが並ぶ。
リズベットは、最後のおまけと言わんばかりに、唸った。その低い声に、気の弱い侍女は震えているかもしれない。しかし、今のリズベットには些細な問題であった。
「どうしようかしら。困ったわ」
六度目の唸り声も虚しく、リズベットは決断できずにいた。夜会は今夜である。用意するものはドレスだけでは無いのだが、どうしてもドレスが決まらない。
ウンウンと唸っていると、部屋の扉が規則正しく三度叩かれた。
「お兄様だわ。アン、開けてあげて頂戴」
「かしこまりました」
アンが開けた扉からは、予想通り、リズベットの兄、オリバーが入ってきた。水色の長い髪をたなびかせ、不遜な態度である。
リズベットと同じ水色の髪と、切れ長の目は、緑色の瞳を携えている。繊細そうな整った顔は、リズベットと紛うことなき血の繋がった兄妹であることを主張していた。
「まだ悩んでいるのか? リズベット」
「ええ、だって……」
リズベットは、チラリと水色のドレスに視線を送った。落ち着いた水色は、最高級の絹を使っているのだろう。
「どちらだってお前には良く似合うよ、リズベット」
どこぞの恋人にでも言っているかの様な砂糖が多めの言葉だが、オリバーはリズベットの正真正銘の実兄である。
オリバーの言葉は甘い。加糖のアイスティーにガムシロップを三杯は入れたような甘さだ。
もしもオリバーがリズベットに厳しい兄であったのならば、きっとリズベットは己が悪役令嬢であることをもっと早く気付いただろう。
何を隠そうこの男オリバー・アンバードは、攻略対象者である。
『君は馬鹿なのか』
この一言だけで、何人の女が落ちたことか。冷たい声、蔑む視線。混じるため息。そのどれもで画面の向こう側にいるヒロインを落とした男である。
好感度0の時の見下したスチルは、ファンの中で「ご褒美」と呼ばれていた。
そのゲーム内のオリバーと目の前のオリバーが同じ等と誰が思うだろうか?
オリバーの妹であるリズベットはかの名言《 「君は馬鹿なのか」を言われたことはない。それどころか、オリバーは、妹にデレデレである。
ファンディスクでしか見たことが無いような、甘い笑みを浮かべて、オリバーはリズベットの肩を抱き寄せた。
「お兄様……」
しかし、リズベットはどちらが似合うかを悩んでいるわけではない。
推しからの贈り物を着ずに保存する言い訳を考えているのだ。
推しからの贈り物である。それは永久保存に値するものだった。
しかし、着てこそのドレス。これをしまい込むには母が納得するようなそれなりの理由が必要だ。
「婚約者云々は置いておいて、リズベットは、どちらを着たい?」
「こっちが着たいわ」
リズベットは間髪いれずに、菫色のドレスを取った。オリバーは、リズベットの勢いに驚いたのだろう。
「そんなにあれは駄目か?」
「ええ、水色は大切よ! でも、お母様はきっと許してくれないわ」
レオナルドからドレスを贈られたことは、母も知っている。この菫色のドレスを着て部屋を出れば、この部屋に逆戻りだろう。
「お兄様、助けて! 何か良い手はないかしら?」
オリバーは妹のお願いに弱い。小さな頃から「お願い」と上目遣いで瞳を潤ませれば、頬を緩ませる。勿論、リズベットは心得ている。この「お願い」は時々出すのが効果的だと。
今回も、例に漏れずオリバーは頰を緩ませた。微かな変化である。家族以外にはわからないだろう。
「仕方ない」
オリバーは、リズベットの頭をポンポンと撫でると、水色のドレスを凝視した。
「何、母上を黙らせるだけだろう? たった一言で済む」
オリバーがニヤリと笑う。アンバード侯爵家は何故こうも笑顔が悪役系なのか。殆ど魔王と変わらぬ笑みを見せるオリバーを見て、リズベットは冷汗を背中に感じた。しかし、オリバーの耳打ちに、リズベットは今程、兄の存在に感謝したことはなかった。
◇◇◇◇
リズベットは上機嫌だ。菫色のドレスを身に纏い、微笑む姿は天使のよう……と言うには少々キツい顔立ちである。
リズベットは、神の助言によって、水色のドレスを保存することに成功したのだ。それはリズベットにとって救いの言葉であった。
「殿下が折角贈って下さったのですもの、殿下がいらっしゃる時に着たいのです」
この一言で、母は満足そうに頷いたのだ。レオナルドがリズベットと会う夜会は婚約発表の場である。つまり、特別なドレスを用意するのだ。水色のドレスは完全にクローゼットで肥やしとなろう。
ベイル家の夜会で、オリバーは注目の的であった。オリバーは攻略対象に選ばれるだけあって、容姿端麗であり、尚且つ頭が切れる。なんと言っても時期侯爵様だ。注目を集めない筈がない。
オリバーの紹介を受けながら、ベイル伯爵と挨拶を交わす。ベイル伯爵がリズベットに与えた賛辞は、どれもこれも良く聞くもので、間に受けるような言葉では無かった。
オリバーと一緒にいると、すぐに人に捕まる。さすが攻略対象と言って良いだろう。
その度に、リズベットは悪役の様な笑みを浮かべ挨拶をした。しかし、オリバーも社交に忙しい。ずっと金魚の糞よろしく付いて歩くのも憚られた。
「お兄様、少し失礼いたします」
リズベットは、オリバーの返事も聞かずに、彼の腕から抜け出した。リズベットはデビューしたばかりである。一人になれば、壁の花よろしく適当にしていられると思ったのだ。
しかし、そうは問屋が卸さない。楽しそうにダンスを踊る男女や、会話をする紳士を見て時間を潰していたリズベットは、近くで給仕をしていた侍女の姿に気づかなかった。
「キャッ」
近くで高い声が聞こえた時には既に遅し。ガラスの割れる大きな音が響いた。
リズベットの隣りには、ベイル家の侍女であろう女性が膝をついて転んでいる。遠くを見ていたリズベットが状況を理解するには時間がかかった。
しかし、推理する程の事でもない。膝をついて転んだ侍女。少し離れたところでクスクスと笑い合う令嬢が三人。ワインの鮮やかな模様が出来た菫色のドレス。
知っている。この状況。デビューしたヒロインが受ける洗礼である。
リズベットは思案した。リズベットは悪役令嬢である。何故、洗礼を受けねばならないのか。何かヒントは無いものかと、令嬢三人を見てみたが、思い出せない。
「あらやだ、可哀想」
「折角のドレスが台無しよ」
「あれではダンスを踊るのも無理。私だったら泣いて帰っちゃうわ」
何というか、リズベット顔負けの悪役令嬢っぷりである。リズベットは探偵にでもなった気分で状況を整理してみたが、わかったことは、注目を集めているという事実だけであった。
「申し訳ございません」
そんなことより被害者だ。きっと足でも引っ掛けられて転んだのだろう。侍女は地に頭を擦り付けて、謝っていた。
「貴女、顔をあげて」
「申し訳ございません」
駄目である。リズベットの言葉が通じていない。仕方ないと、リズベットは腰を曲げて、侍女の肩に手を置いた。謝罪の言葉は中断され、肩がビクリと跳ねる。
「顔を上げなさい。私は気にしていないわ」
恐る恐る頭を上げる侍女に渾身の笑みを見せた。悪役面の微笑みは余程怖かったのだろう。白い顔が青くなっていくのがわかる。
「申し訳ございません」
「いいのよ。水色のドレスではないもの。それに、これだけ人が多ければ、誰も気にしないわ」
リズベットの凶悪極まりない聖母の微笑みに、侍女はもう一度床に頭を擦り付けた。
オリバー「私の妹マジ天使」
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一話毎にタイトルを振ってみました。
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