2.王太子殿下と婚約者の噂
レオナルド・アスイールの大きなため息は、扉の側に立つ従者イヴァンにまで達した。既に数度のため息の後だ。これ以上陰湿な空気が部屋を支配するとあっては敵わないとでも思ったのだろう。イヴァンは仕方なしにレオナルドの側まで歩いてきた。
「いかがなされました。殿下」
イヴァンが問えば、レオナルドはまた大きなため息をつく。部屋の空気がまた一つ濁った。
王太子であるレオナルドに与えられた執務室に、レオナルドとイヴァンは二人きりだ。この空気を打破できるのは、残念なことにイヴァンしかいない。
「そんなに嫌ですか、婚約者が」
テーブルに置かれた姿絵には、少女が映し出されている。まだまだ幼さは残っているが、将来は美しく輝くことだろう。
「婚約者が嫌というわけではない」
会ってもいない少女を嫌う程の理由はない。とびきりの美人なら尚更だ。
「では、婚約自体が?」
「確かに私には後ろ盾が必要だ。しかし、こんな少女をそんな事情に巻き込んで良いものか」
この婚約には、王家の事情が存分に含まれていた。レオナルドの母親は、レオナルドを生んですぐに亡くなっている。
本来であれば、祖父が後ろ盾になるものだが、いかんせんレオナルドの母親は隣国の王族だった。やんごとなき身分であれど、国内に後ろ盾がないレオナルドの立場は非常に危うい。
しかも、レオナルドには四つ下の異母弟がいる。異母弟の母親である現在の王妃は、ノークス侯爵家――名門中の名門出身だ。
どうにかして息子を王太子にと願うのは、母親としては当然のことだろう。
息子を心配した父親が持ってきたのが、今回の話というわけだ。国王の勧めもあって、アンバード家もノークス家に負けずと劣らず名門である。受けない手はない。
「アンバード侯爵家だって、王家との繋がりができるのです。政略結婚とはそういうものだと、相手も理解しているでしょう」
レオナルドは、再度姿絵に、目を向けた。少女は勝気な目をしてレオナルドを見ていた。
「確か、デビューを済ませたばかりだったな」
「ええ、先日アンバード侯爵邸での夜会で、デビューを済ませたようです。デビュタントとは思えない程に堂々とした出で立ち、その美しさに、誰もが魅了されたとか」
「それは、楽しみだ」
レオナルドが久方ぶりに笑顔を見せると、イヴァンはホッと胸を撫で下ろした。
「ええ、もうすぐ着く頃かと思いますよ」
空気を読んだ様に、扉が三度叩かれた。レオナルドとイヴァンが扉に視線を向けると、「失礼します」と侍女が入ってきた。
「レオナルド王太子殿下、アンバード侯爵夫人並びに、御令嬢がお着きになりました」
侍女の言葉にレオナルドは、重い腰を上げた。
「さて、行こうか」
長い廊下を歩く。すぐ後ろにはイヴァンが続いた。あまり乗り気ではなかったが、レオナルドも嫌だ嫌だと駄々をこねているような年齢ではない。
「確か、リズベット嬢と言ったか」
歩きながら釣書を確認する。レオナルドは数日前に受け取っていた書類だというのに、今日初めて目を通している程にやる気がない。
「ええ、お年は十四と聞いています」
イヴァンの言葉にレオナルドは目を見開いた。レオナルドは、今年で十九。婚約者であるリズベットとは五つも差がある。
「まだ子供じゃないか」
レオナルドは絵姿を再度まじまじと見た。大人びた雰囲気があるせいか、レオナルドにはもう少し年が近いと思っていたのだ。まさか五つも下とは思うまい。
「五つなど、今は大きな差に感じても、年を重ねれば気にならなくなりますよ」
達観したような口ぶりだが、イヴァンもまだ二十三歳を迎えたばかりだ。恋人がいたという話も聞かない。全く当てにならない意見に、レオナルドは物言いたげな目を送った。
「父の期待に添えられるよう、努力しよう」
レオナルドは、よそ行きの顔を作ると、婚約者が待つ温室の扉を開いた。
庭園に面した温室は、陽当たりの良さと、美しい花々が自慢の一室だ。王家が招待した客人をもてなしたり、現在の王妃がお茶を楽しむのに使用していた。
今日も柔らかな陽射しが入り込み、心地の良い空間を作っている。
客人の為に用意された大きな長椅子には、アンバード侯爵夫人とその娘リズベットが座っていた。入室したレオナルドを確認すると、即座に立ち上がり、礼を取る。
「お待たせしました。アンバード侯爵夫人」
「本日はお招き頂きありがとうございます。レオナルド王太子殿下、娘のリズベットでございます」
「リズベットと申します」
レオナルドが笑顔で挨拶すれば、アンバード侯爵夫人はすぐさまリズベットを紹介した。
緑色の勝気なツリ目も、水色の巻き毛も、どれも絵姿通りだ。落ち着いた青色のAラインドレスは、彼女をより一層大人びてみせる。釣書通りの年齢には全く見えない。
彼女の優雅な挨拶は、とても美しく洗礼されていた。アンバード侯爵家が以前から教育熱心で、レオナルドの婚約者の座を狙っているという噂は本当の様だ。
しかし、他の令嬢と違う点も多々ある。その一つが、レオナルドの顔を見ても頬を染めすらしない点だ。
大体の令嬢は、レオナルドに見つめられると、時には恥らい、時には媚び、レオナルドを失望させてきた。
リズベットは、レオナルドの顔を一瞥すると、つまらなそうに目を逸らしてしまった。小さくため息をつく始末だ。
先程から口を開くのはアンバード侯爵夫人ばかり。リズベットは時々お愛想とばかりに頷いては、つまらなさそうに窓の外に広がる庭園を眺めているのだ。
レオナルドは、酷くリズベットに興味を抱いた。もっと彼女を知りたいと強く思う。
「リズベット嬢、そんなに庭園が気になるようでしたら、案内させて下さい」
レオナルドはにっこりと笑った。リズベットは、心底驚いたのだろう。レオナルドの申し出に、目を大きく見開いた。
リズベット「推しが生きてる……!」