1.侯爵令嬢と前世の記憶
よろしくお願いします。
居間は、暖かな陽射しが入り込み、今日という素晴らしい日を祝福している。
厳格な父の真顔と、優しい母の笑顔。そして、目の前の絵姿。
アンバード侯爵邸のうららかな昼下がりは、リズベットの絹を裂くような悲鳴によって終止符を打つ。
お腹から絞り出した悲鳴が居間を駆け巡ると同時に、リズベットは座っていた長椅子に崩れ落ちた。
次に目を開いた時、リズベットは見慣れた天井であることに安堵した。
「お嬢様、お目覚めになられましたか?」
クラクラとする頭を抑え、どうにか上半身を起こせば、気遣わしげに侍女のアンがリズベットの身体を支える。
「私……」
「居間で倒れられたのです」
「ええ、思い出したわ。全部」
リズベットの顔がくしゃりと歪む。そう、リズベットは思い出したのだ。その全てを。
「……リズベット様?」
困った顔のアンが、リズベットの顔色を伺う。控えめな彼女はいつだって、リズベットの顔色を伺って生きている節がある。心配しているというよりは、リズベットが怖いのだ。
「大丈夫よ、アン」
勝気なツリ目も、天然由来の豪奢な巻き毛も、整い過ぎた顔立ちも、この侍女には魔女にでも見えているのだろう。
リズベットは、生まれて十四年、何度もこの見た目に不満を感じたことか。しかし、それもその筈だ。
「私、悪役令嬢なのね」
リズベットの呟きは、寝室をぐるりと一周した。それに応える声はなく、アンがぱちくり瞬きをするだけだった。
「ねえ、アン。手鏡を持ってきて頂戴」
小さな頃、誕生日に買ってもらった手鏡は、リズベットのお気に入りだ。リズベットは、精巧な作りの手鏡を覗き見て、大きなため息をついた。
「あなた、どこかで見たことがあると思ったわ。悪役令嬢だったのね」
緑色の瞳は勝気なツリ目。空にも勝る水色の豪奢な巻き毛。顔に幼さは残るものの、リズベットは彼女を見たことがあった。
「リズベット様……?」
主人の不可解な独り言に、真面目な侍女は困惑気味だ。リズベットは手鏡から目を離すと、アンを見た。
「アン。まだ調子が悪いみたいなの。少し一人にしていただけるかしら?」
「か、かしこまりました」
静かに扉が閉まるのを確認すると、リズベットはもう一度手鏡を覗いた。
「ない。ないわ。ないったらないわ」
左手に手鏡を持ちながら、右手で何度もペタペタと顔を触る。人形のように整った小さな顔。真っ白な肌。小さな頃から違和感はあった。
思いっきり頬をつねれば、勿論痛い。白い頬が赤く染まった。
「現実だと言うの? 長い夢を見ている可能性は?」
十四年の記憶を網羅する夢となると、相当眠っていることになる。それはそれで困ると、リズベットは頭を抱えた。
リズベットの記憶が正しければ、ここは乙女ゲームの世界の筈だ。
「何で、よりによって悪役令嬢なのよ。ここは普通ヒロインでしょ?」
何か悪いことでもしたというのか。前世で冷蔵庫に入っていた姉のプリンを勝手に食べたことが原因か。それとも、やばい結果に終わったテストの答案用紙を押入れに隠したのがいけなかったのか。
何度手鏡を睨んでも、悪役令嬢は悪役令嬢だ。
嘲笑うように、絵姿がサイドテーブルからひらりひらりとベッドに滑り落ちた。
リズベットはお気に入りの手鏡を投げ捨て、すぐさまその絵姿を手に取ると、ウットリと見つめ、頬を上気させた。
「ああ、麗しいわ……レオナルド様……」
彼の名前は、レオナルド。アスイール王国の王太子である。今日、このうららかな日に父と母は、彼がリズベットの婚約者になったことを告げた。
リズベットが悪役令嬢であることに気づいたのが、この絵姿を見た時だ。脳の隅っこに放置されていた記憶が、縦横無尽に踊り出した。
リズベットは他とは違う。何故なら、リズベットには前世――別人としての記憶がほんの少し残っている。
残念ながら、前世は誰であったかまでは詳しくはわからない。けれども、馬鹿みたいな話しだが、この世界のことだけは、はっきりくっきり覚えているのだ。
繰り返すこと三十四回。レオナルドルートの話である。彼の甘い台詞は完璧に暗唱できる程になったし、スチルは部屋中に引き伸ばして貼った程だ。レオナルドの痛バッグは、何個も作った。
つまるところ、リズベットの前世はオタクだったのだ。
人生で何人もいた推しの中でも最高の、いや、唯一無二と言ってもいい。前世にとっての伝説級の推しが、この国の王太子レオナルド・アスイールなのだ。
何度スチルに向かって願ったことか。二次元に行きたいと。
今日、このうららかな日。リズベットは前世の願いが叶ったことを知った。
「じゃあ、抱き枕以外のレオナルド様に触ることができるの? なにそれ……ヤバくない?」
リズベットの脳内は完全に前世へと戻っていた。完璧なお花畑状態である。既に、悪役令嬢という目先の問題のことなど放り出して、真っ白な枕を両手両足で抱え込み、広いベッドの上をゴロンゴロンと転がった。
枕元には推しの姿絵とお気に入りの手鏡を転がして、リズベットは夢の世界に旅立った。
リズベットが、問題――悪役令嬢のことを先延ばししたことを後悔するのは早かった。そのまま次の日の朝までレオナルドのとびきり甘い夢を見ていた彼女を待っていたのは、いつもと変わらぬ優しい母の笑顔と、綺麗なよそ行きのドレスを持ったアンの姿だった。
「さあ、リズちゃん、レオナルド様に会いに行くわよ」
リズベットは、悪役令嬢である。悪役令嬢などという固有名詞を与えられた登場人物の末路など、言わずもがな。
夢見る少女と化したリズベットは断固拒否した。何の対策もないまま、推しに会うのは浅はかだ。しかも、自分が悪役令嬢だというのだから尚更だ。
良い年して泣き叫んだ。けれど、母親には敵わない。大人びたブルーのドレスを着せられて、頭には白い花なんて飾られて。
アンバード家の豪華な馬車は無情にも走り出す。リズベットは心の中で歌った。売られる子牛の歌を。
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早く王子様出したいです。