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* 六花の涙 *

作者: 神乃木 俊




雪が降る場所に憧れていた。なにもかもが息を潜める極寒の大地で暮らしたかった。


そこでならだれかの優しさに怯えることもなく、一人孤独を噛み締めて生きていけるから。





           *





牡丹雪ぼたんゆきが降るくもり空の夜更けに、おれは無人駅の駐輪場で幼馴染おさななじみを待っていた。


かじかんだ指をたしかめるように、おれはなんどもなんども傘の柄を握りなおす。



『もうすぐ着く』と携帯に連絡が来てからしばらく経つが、メッセージの送り主はなかなか姿を現さなかった。





発光する携帯画面をぼうっと眺める。


そこには妹のあかねからの二ヶ月前のメッセージが、返信されないまま残っていた。




『お兄ちゃん、今年のお正月は帰ってくるの』




おれは逃げるようにコートのポケットに携帯を滑り込ませた。


裸木の表面に白い雪が積もり、氷ついた歩道を街灯が照らしている。


春はまだ遠い。



「すまん、待たせた」



どれだけの人々を見送ったあとだろうか。




無防備な肩を叩かれてふりかえると、耳にふかふかのヘッドホンを付けたひかるが満面の笑みで軒下に立っていた。


モコモコの防寒着で黒のリュックを背負っている。




次の駅へ向かう電車のけたたましい車輪音が、糸を引きながらトンネルの向こうへ消えていく。



「久しぶりだな、あおい


「光、良く来たな」



おれたちは再会の挨拶を白い吐息で交わらせると、相合傘をしながらアパートへと向かった。





先月、光から久しぶりに連絡が届いた。


大学の研究室も一段落したから、おまえのところに遊びに行っていいかと打診されていたのだ。





ならしたように平坦に積もる新雪に二人分の足跡を刻む。ざくざくと小気味よい音が耳をくすぐる。


肩を並べる光がちらりとこちらに視線をくれた。



「しかしおまえ、えらく薄着だな」


「おれ、寒さには強いんだ」


「なんだ、それ」

 



土で汚れたエントランスをくぐり抜け、前日に片付けておいた部屋へ招き入れる。


荷物は部屋の脇に置くように指示した。


光は電車での座りっ放しがこたえたのか、あらゆる関節がパキパキと軋んだ音を立てた。



「ふう、疲れた」



光は濡れた靴下をビニールに詰めると、コタツに足を突っ込んで電気カーペットにごろんと寝そべった。


すると腹の虫がぐうっと暴れ出す。



「飯、食ってないのか」


「まだ。蒼のおすすめのお店を教えてくれよ」


「線路沿いのさきに、うまいうどん屋がある」


「良いね。それで決定」

 


おれたちはコタツでしばらく暖をとってから出掛けることにした。


せっかくなら銭湯にも行こう。


テレビの地方ニュースを眺めながら、そんな段取りも決めた。

 



外に出かける英気を十分に養うと、着替えを詰めたビニールバックを片手に玄関口に向かった。


扉を開けるとみぞれまじりの強風が出迎え、おれの眼鏡が一気に凍りつく。


寒さに辟易へきえきした光はおれの服の裾を引っ張った。



「行きたくねぇ」


「おれの料理でもいいけど、保証はできない」


 

おれは光のしかめっ面を横目に見ながら、もう戻れないように部屋の扉の鍵を締めた。





           *





道路脇に停められた車のボンネットには雪がうずたかく積もり、歩道脇には犬や猫を模した雪だるまが飾られている。


小学生が下校帰りにつくったのだと想うとなんだか愛おしい。




しばらくして見えてきたうどん屋へ駆け込むと、暖房に感謝しつつ近くのテーブル席に腰かけた。


おれは月見うどんにしようと決めていたので迷わなかった。


けれど光は食い入るようにメニューを覗き込んでぴくりともしない。



「どれもうまそうだな」



そのあとも光はうんうんと唸り続け、痺れを切らしたおれが店員を呼ぶ段になってどんとおでんのセットを頼むことにやっと踏み切った。


こいつは飯を頼むとき、最後の晩餐ばんさんかのように全身全霊で決断する。


いまを楽しむことに余念がないのだ。



「今日は泊めてもらうし、ここと銭湯はおれにおごらせろよ」


「サンキュー」



おれたちはたがいの近況報告をしながら麺をすすった。




光はサークルでの馬鹿話を披露し、合コンで知り合った年下の彼女の可愛さにのろけ、バイトで流す汗がいかに健全ですばらしいかを熱く語ってくれた。




そのどれ一つとして興味を魅かれないおれだったが、その話し振りに自然と頬がゆるんだ。


光はキャンパスライフを存分に謳歌している。


その事実だけでおれの心は満たされていった。




聞き役に徹していたのでさきに食べ終わり、おでんの卵と格闘する光を眺めていると、その手元に眼が自然と吸い寄せられていった。


長袖をまくしあげた左手に見慣れない時計が付けてあったのだ。



銀色のベルトに英数字が刻まれた時計板。


そのまわりをクリアな青で縁取られている。


美しい時計だ。



「その時計、どうしたんだ」


「お、いいことに気がついたな」



光はまるで新しいおもちゃを買った小学生のように得意顔で、おれに時計を手渡してくれた。


てのひらにずしりと重みを感じる。



「うちのバイト仲間に時計に詳しい奴がいて、見繕ってもらったんだよ」


「かっこいいな」


「だろ。結構良い値段するんだぜ」



おれは腕時計を身につける習慣がない。時間を確認するだけなら携帯で十分だと思うからだ。


けれど光は腕時計を付けるのは、なにも機能だけの問題じゃないと力説する。



「これはおれの持論だけど、ファッションってのは究極の自己満足なんだ。だからこそ、着るものや身につけるものにこだわったほうがいい。無駄や遊びがない男なんてつまらないだろう」



おれは時計を返しながらなるほどと頷いた。



こういうスタンスを表明できるからこそ、光は光でいられるのだろうと思った。





           *





おなかを満たし終えると、次の目的地である銭湯へと向かう。


温まった体を冷やしたくないのでバスを利用する。


空席ばかりのバスに揺られること数分、湯と書かれた荒びれた看板が見えてきた。


建物の塗装は剥げ落ちて老朽化が進み、地元の住民によってなんとか経営が成り立っているような有様だった。




チケットを券売機で購入し、番台に渡して暖簾をくぐる。


バスケットが置かれた棚に服を突っ込み、浴場へ続くスライド式扉を開ける。


立ちのぼる湯気に視界を塞がれて肌の表面が粟立つ。


閑古鳥が鳴いていて、ほかの客はいなかった。



「しかしおまえ、風呂でも眼鏡を外さねぇんだな」


 光はあきれ顔でこちらを見ていた。


「ひどい近視で手離せないんだ」



ひび割れた石けんで体を磨き、段差に腰かけるようにして湯に浸かる。天然の石壁は幾何学きかがく模様でおもしろい。



「良くこんなところに住めるなって感心するよ。ここで生活するなんておれには絶対に無理だ」



おれは湯気で煙に巻くように返事を返さなかった。




だからこそこの地を選んだ、とは、とても言えなかった。




すると背後で扉が滑る音がして、ぴしゃっと水を跳ね飛ばす足音が続く。


どやどやと若い声が浴場に木霊した。


集団が入ってきたようだ。


どこかで聞いたことがある声だと思っているうちに、背中に視線が集まるのを感じた。



「あれ、蒼じゃねぇの」



予感は確信に変わった。


ふりかえると同級生の四人組が腰にタオルを巻いた姿で立っていて、こちらに奇異の眼を送っていた。


おれの横にだれかいることが珍しいのか、湯をかき混ぜる光の様子を窺っている。


おれは四人の顔が集まる中央あたりに視線を固定して黙っていた。


なにも言うつもりはなかった。


すると光がおれの視線のさきにだれかいることに気がついて挨拶を切り出した。



「どうも、はじめまして。蒼と幼馴染みの光です。あれですか、蒼とおなじ大学の人たちですか」


相手の懐に入ろうとした光だったが、四人組は困ったようにたがいの顔を見合わせている。



「……どうも」



だれからともなくそう言うと、なんともいえない空気を背負ったまま洗い場へと流れていった。


おれたちのあいだに浮かんでいた微妙な雰囲気。


それを感じとった光が濡れた髪で首を傾げる。



「あれ、友達じゃねぇの」


「いや、ただの同級生だ」


「……そっか」



おれの悪い癖が治っていないことを悟ったのだろう。


言葉が続かなかった光は握手するように自分の手を合わせると、水鉄砲のごとくおれの顔へ湯を飛ばしてきた。


なにが起こったか分からず唖然とする。


眼鏡の水滴を払うと、光は意地悪く笑っているのだった。良く切れそうな八重歯が口角の端から覗いている。



わざとおれに湯を飛ばしたらしい。



カチンときたおれは湯を蹴飛ばして報復した。


湯をもろに被った光はお返しとばかりに、無防備なおれの足を引っ張って湯のなかへと引きずりこんだ。


湯を盛大に飲んだおれは水面に浮上してせたあと、怒りに任せて光の頭を湯へと沈めてやった。


すると光は羽交い締めしようと接近戦を挑んでくる。


そのうちにたがいの闘争心がどんどん燃えあがり、そのまま格闘へと発展していった。




光は終始笑顔だった。おれも、笑っていた。




それはとてもくだらない時間だったけれど、小学五年生のときの修学旅行に舞い戻っているようだった。


おれと光とその友達数人で、こうやって浴場で暴れたものだった。


引率の先生に折檻されるまで続けたっけ。




忘れていた懐かしさと温かさに触れながら、おれたちは子供みたいな笑い声を浴場いっぱいに響かせた。





           *





「蒼はさ、仲良い友達とかいるの」



コンビニで缶チューハイやポテトチップスを買い込み、ダラダラとコタツで酒をあおっていると、ソファで横になる光が尋ねてきた。


おれは缶を振って中身が入っていないことを確認すると、両端をへこませて透明ゴミ袋に投げ込んだ。



「いないな」


「サークルとかバイトとか、ほかの奴との関わりって持ってないのか」



光の口調が急に熱を帯びていくので、おれはなにかへまでもしたかなと焦るくらいだった。



「なにも」


「暇なときとか、なにしてんだよ」



まるで氷の剣を喉元に突きつけられるかのようだった。


おれは新しい缶のプルを開けるのをやめて考え込む。



「そうだな。小説読んだり映画鑑賞したり。一人でずっといるな」


「……やっぱりか」



光は息を吐いて天井を見上げた。



「なんか以前より、雰囲気が暗いんだよなぁ」


「そうだったか。気がつかなかった」


「蒼は危ういんだよ。やっぱり他人と一緒にいるのが、いやなのか」



おれは正直に首を縦に振ると、光の眼が悲しい色に染まった。


それがつらかった。


自分だけの感情なら平気だ。


けれど光が傷つく瞬間を見ると平静を保てなくなる。



「傷つかないでくれ、光。おまえが悪いんじゃない」


「茜ちゃん、心配していたぞ。今年の正月も家に帰らなかったらしいな」



そこでばらばらだった糸がピンと繋がった。


そういうことか。


おれの様子を見に行くように、茜が光をけしかけたらしい。


おれは缶尻の形で濡れるコタツの表面をじっと見つめる。




「おれさ。人間に向いていないなって、思うことがあるんだ」




空白を埋めるように、ストーブがごうっと熱風を噴き出す。




「どういう意味だよ」


光がごくりと唾を飲みこむ音が聞こえた。




おれはティッシュでコタツ表面の水滴を拭い去る。


「物心ついたときから、ずっとそうだったんだ」




むかしから意思を伝達することに欠陥があるおれは、なにを考えているのか分からないとずっと両親に言われ続けてきた。


そこに浮かぶ困惑と諦め。


幼いおれは嵐が去るのをうつむいて待つことしかできなかった。



やがて妹がこの世に生まれると、両親の愛情は分かりやすいほどにそちらに傾いていった。


それでやっとおれは安心を手にすることができた。一人の世界で完結することが出来た。



「人との付き合いってのは、キャッチボールって言うだろう」



おれは苦い体験を思い出しながら、想いを言葉にしていく。



「それって、たがいに構えたミットへボールを投げることが大切なのに、相手のミットの位置が分からないおれは、いつも明後日の方向にボールを投げてしまう」


他人にどう見られていようが関係ない。


だれもいない図書館で本を読んでいようが、一人でお弁当をつついていようが平気。



心細さは付きまとうものの、他人を気遣う必要がないのは居心地が良かった。



だが、そんなおれを心配してくれる奴らが必ずどこかにいて、馴染めないおれをどうにかしようと躍起になるのだ。


そのせいで仲良し集団をなんど瓦解がかいさせたことか。


おれのせいで優しい奴らの心をどれだけ踏みにじってきたことか。



「べつに悲観ぶっているわけでもなく、自分を哀れんでいるわけでもない。ただ一つの事実として、おれは人の機微をうまく読むことが出来ないんだ」



優しい他人がいつも怖かった。側にだれかいられることに怯えていた。 


だからおれは一人になることを強く望んだんだ。




なのに――




おれは結局、一人にはなれなかった。



光と茜だけは、おれを放っておいてくれなかった。



「なあ、蒼」



光は視線をさまよわせて想いをぶつけてくる。



「おまえはさ、おれのことが嫌いなのか。めんどくさいって思っていたのか」


「そんなこと、ない」



嫌いなわけがない。できるなら離れたくなかった。


孤独の影を、光がいつも照らしてくれていた。



だけどおれたちは、側にいてはだめなんだ。


おれは光の足枷になんてなりたくない。


光には輝ける世界で笑っていて欲しかった。おれに関わって世界を狭めて欲しくなかった。



だからおれは縁もゆかりもないこの土地を選んだんだ。


自分に関わるすべてから距離を置くために。


それにこの場所でなら、一人でいることが許されるような気がしたんだ。




「『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』」




おれがとある小説の冒頭をそらんじると光の声が続いた。




「『雪国』か」


「そうだ。ずっと憧れていたんだ。この文には主語がない。主語がないんだよ」


光がじっとおれを見ている。


「それって素敵なことだ。鳥のように高いところから世界を見下ろしているだけなんだ。おれはそれに憧れていたんだ。良いも悪いもないあるがままの世界を、おれは自分という枠を抜けて眺めていたいんだ」



いままで心の奥に凍りつかせていた想いを、はじめて言葉に変えて解き放った。



光はなにも言わずに眼を細めて、唇を噛み締めた。


その瞳は冬の海のように淡くて、涙色をたたえていく。


やがて腕で覆い隠すと、ぐすぐすと鼻を鳴らし、やがて嗚咽おえつを零しはじめた。



「ごめんな、光」



 その涙の出所がおれであることを思うと忍びなくて、けれどその涙を止める言葉は持ち合わせていなくて、おれは飾り気のない部屋をじっと見渡すことしかできなかった。





           *





やがて冬の夜が静かにふくらんでいくなかで、嗚咽すら聞こえなくなると、穏やかな寝息が部屋を包んでいった。


どうやら光は泣き濡れて眠ったようだ。


おれは膝に手を置いてそっと立ちあがり、寝室から毛布を取ってきて掛けてやる。


額から前髪がさらさらとこぼれ落ちた。


半開きの口元はよだれで濡れているが、ほかの表面はかさかさにひび割れている。




おれはその無防備な顔に、そっと自分の顔を近づけていく。




光。



おれがこの世界を信頼しているのは、好きでいられるのは、この世界のどこかにおまえがいるからなんだ。


世界には温かな陽だまりがいつも広がっている。そう信じる気持ちをおまえがくれるんだよ。



他人を想う気持ちは祈りそのものだ。



おれの祈りがちゃんと届いていることをおまえがいつも教えにきてくれるから、おれはこの世界で生きていける。




おれは自分の唇をそっと光へと押しつけた。


めくれあがった薄皮がちくりと刺さり、すこしくすぐったかった。 


じっと見つめていると光が身じろぎして左手が滑り落ちた。



おれはびくっと肩を跳ねさせて後ずさった。殴られるかと思ったからだ。


けれどそれは勘違いだったようで、左手は地面に垂れたままだった。



そこにはうどん屋で見せてくれた時計がはめられたままになっている。


おれは静かに腕時計を外し、自分の左手に装着する。


光の体温で腕時計は温かかった。



おれはできるだけ足音を立てないようにベランダへ近づき、カーテンの隙間からクレセント錠を外した。


そしてベランダに出てすのこのうえに座る。


塀の向こう、物干し竿のあなたに広がる夜空を見上げると、粉雪がはらはらと舞い落ちてきた。



人間にも様々な性格があるように雪の落ち方にも個性がある。


建物近くに降り注ぐ雪の速度は早く、その向こうは心なしかゆっくりだ。




今夜は無性に、だれかの温もりに触れたくなった。




おれは身を屈めるようにしてズボンのポケットから携帯を取り出し、茜の電話番号を探した。


迷った末に発信ボタンをタップする。



三回ダイアルして通じなければ切ろう。


一、二回目は繋がらず、三回目もこのまま終わると予想した矢先、ぶつっとダイヤルが途切れた。



「もしもし、お兄ちゃん」


「あ、あかねか」


「そうよ。どうしたの、こんな時間に」



通じるとは予想していなかったので、咄嗟に言葉が出なかった。


おれの顔を見に去年遊びに来て以来だから一年ぶりの会話になる。


長い隔たりがあったことを感じさせないほどに、茜の話し振りは自然だった。



「なんとなく、あかねと話したくなったんだ」


「へんなお兄ちゃん。わたしは嬉しいけど、こんな時間じゃなかったらもっと嬉しかったな」


そうだった。茜は昔から、感情を示さないおれに歩調を合わせるのがうまかった。




時計を見遣る。


すでに時計の長針は頂点を跨いでいた。


明日も朝一番から大学の講義があるだろうに、申し訳ないことをした。



「ごめん」


「良いよ。それで、どうしたの」


「それが」



おれは頭に浮かんでくる事柄を順序関係なく、けれど脚色することなく喋ることにした。


人付き合いがあまり得意でなく、だれも知らない雪国での生活にずっと憧れていたこと。


それから光がいまここに来ていること。



すると電話の向こうの茜の声が跳ねた。



「良かったね。光さんが来てくれて」


「やっぱり。おまえが光をけしかけたのか」


「うん。そうでもしないとお兄ちゃん、ガードが硬いから」



苦笑していると、茜がふわっと眠たそうなあくびをこぼした。



「お兄ちゃん、たまには実家にも帰って来なよ。お母さんたち心配しているよ」


「そっか。……この雪が止む季節になったら、帰ろうかな」



自分で言っておきながら自分が一番驚いていた。気持ちが追いつかない。


すぐさま取り消そうとしたけれど、茜の返答速度が若干勝った。



「……嬉しい」



その短い言葉に込められた暖かみが耳に染みる。


おれが帰ってくるのを、幸福の庭の入口でずっと待っていてくれたかのようだ。


おれは撤回を飲み下した。



「お兄ちゃん、むずかしいことばっかり考えちゃだめだよ。良いことだってあるんだから。わたし、もう眠いから寝るね」


「うん、お休み。話せて良かった」


「わたしもお兄ちゃんと話せて嬉しかったよ。それじゃあ、またね」



電話が切れた瞬間にくしゃみをして、おれは寒空を見上げた。


雪は勢いを増してとめどなく降り続けている。


寒さはこの体に浮かぶ余分な感情を凍らせていく。



てのひらを空に向けて広げてみる。


するとひとひらの雪がするすると舞い降りてきた。


完全な六花の形だ。


それがおれのてのひらでしずくに変わっていくのを見届ける。




どんな想いを宿していても、それを肉体から切り離すことはできなくて。だから人は生まれた意味を、生きていく希望を求めるのかもしれない。




おれは体をぐっと縮めるようにしながら左手の時計に白い息を吐きかけた。



「『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった』」



夜の底が白むまで、あとどれくらいだろう。


分からない。それならば待てばいい。




時を刻む時計の針。




その規則正しい、チクタクという音色に耳を済ませた。




―――春の足音は、もう間近に迫っている。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 繊細で情緒的な表現に圧倒されました。感情の機微と風景描写をとてもきれいに描かれていると思います。主人公の語りや雪国の引用も印象的でした。 [一言] 執筆活動頑張ってください。
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