File.4
次に目を開いた時には既に昼過ぎになっていた。
ベッドから起き上がろうとしたセナが欠伸をすると、隣で寝息をたてる白い少女に驚いてむせ返りそうになった。
そうだ、そういえばこの子を匿うことになったんだっけ。
イヴの寝顔を見ながら昨夜のことを思い出す。
確かこの子は記憶を失くしていて、恋人の暴行でトラウマを抱えていて、アクルックスっていう箱庭から逃げてきて、それから――
セナの脳裏に、至近距離で顔を真っ赤にしたイヴの恥じらう表情がフラッシュバックする。
自分の唇を指でなぞると、まだ微かにイヴの感触が残っている気がする。
今思い返せばどうしてあのような展開になったのか自分でも疑問で、今更ながら少し恥ずかしく思えた。
酔ってたとはいえ、ちょっとやりすぎちゃったかな……。
ほんの少しだけだが罪悪感を感じていないこともない。
胸の内で静かに反省していると、ベッドの上のイヴがもぞもぞと動き始めた。
「起きた? おはよ、イヴ」
「ぅう……ん、おはようございます、セナさん」
「うわ、イヴ、頭すごいよ?」
寝ぼけ眼を擦って上体を持ち上げたイヴの美しい銀髪は寝癖でぐちゃぐちゃだった。
しかし彼女の髪が乱れているのは、半分はセナのせいでもあるため笑うのは躊躇われる。
「ちょっとこっち来て。ここ座って」
「ふぁい……」
セナは寝ぼけてふらふらのイヴを椅子に座らせると、櫛でその長い髪を整えてやった。
まだ眠そうなイヴはその間もずっと目を閉じたままだったが、口元は少し嬉しそうに緩んでいたのだった。
*****
「セナさん、本当にいいんですか? 私なんかを近くに置いたりして……」
「うーん。だって、行くとこないんでしょ?」
もじもじと申し訳なさそうに尋ねるイヴにセナが答えた。
元々イヴは夜を明かしたら出ていくつもりだったようだが、行く宛もないと知っていて見捨てるようなことはセナにはできなかった。
「遠慮なんかしなくていいから、しばらくはアタシのとこにいて。ね?」
「ぅぅ……ごめんなさい、何のお礼もできないのに……」
「気にしない気にしない。じゃ、何か適当な食べ物でも買ってくるから、イヴはここで待ってて」
セナはそう言い残して部屋をあとにした。
そのついでに二人部屋に変更してもらおうと、セナはホテルのフロントへ向かった。
宿泊客のほとんどが出払った午後のフロントロビーでは、自動清掃ロボットが慌ただしく走り回っていた。
セナがロビーに到着するとフロントには先客がいたのだが、その客の様子がどうも穏やかではない。
彼らはどうやらフロントの女性従業員と揉めているようだった。
「――だから何度も言わせるんじゃない! ここにいるのはわかってるんだ。何号室に泊めてるのか早く教えてくれ!」
「ですから何度も申し上げております通り、お客様の個人情報になりますので――」
「こっちは緊急事態なんだよ! 痩せ型で白の長髪、歳は17の娘だ。何という名前で泊まっているかは知らないが早く調べてくれ!」
騒いでいたのはスーツを着た二人組の男だった。
中年の男がフロントの女性と揉めている隣で、若い男が黙って立っている。
そして聞こえてくる会話からは何か嫌な予感がしてならない。
彼らが探していると思われる人物の特徴がイヴと非常に似ているのだ。
ていうか、これ絶対イヴのことだよね……。
ひょっとしてコイツら、イヴを追ってここに?
昨晩のイヴの姿が思い起こされる。
研究所で実験を繰り返されていたと語る彼女の手は震え、目には涙が浮かんでいた。
コイツらにイヴを渡すわけにはいかない。
衝動的にそう判断したセナ。
イヴのあんな顔をもう一度見せられるなど、絶対に御免だ。
セナはポケットからスマートフォンを取り出すと、電話がかかってきた体を装ってその場を離れた。
わざわざ演技を交えたのは、男たちの騒ぎを見て動いたのだと勘づかれないようにするためだ。
「――もしもし? 今ロビー。……うん、そっちに行けばいいの?――」
できるだけ自然に、知り合いに電話で呼び出されたという設定の芝居を続ける。
中年の男は「あんなに目立つ外見なんだから見覚えくらいあるだろ!」とまだ騒いでいる。
若い方の男は時折ちらちらと周囲を見渡しているが、特に目立つ動きはない。
ロビーを去って角を曲がり、男たちの死角に入ったセナはそこから部屋に向かって全速力で駆け戻った。
しかし、そんな彼女の挙動をちらりと見た若いほうの男が、騒ぐ中年の男の肩を叩いて耳打ちをしていたことにセナは気づいていなかった。
すれ違う宿泊客が驚く様子など露も気にせず、廊下をひた走るセナ。
部屋の前まで辿り着いた彼女は、ポケットのカードキーでドアを開錠すると勢いよく中へと飛び込んだ。
「イヴ!! 今すぐここを離れるよ!!」
「セナさん!? どうかしたんですか?」
一大事であることを察したイヴが思わず立ち上がる。
セナはイヴに駆け寄るとその細身の肩に両手をかけて彼女の目を見据えた。
「フロントにイヴのことを探してるヤツらがいる。多分アクルックスからの追手だと思う」
「そんな……どうしてここにいるって……!」
「考えるのはあと。急いで!」
荷物をまとめる時間すら惜しむように、セナはイヴの手を取って駆け出した。
追手と接触することだけは避けたい。
彼らがフロントで足止めを食っている間にホテルの裏口から逃げるのが最善だろう。
「いました! あそこです!」
「――!!」
ところが事態はそう上手く運ばなかった。
部屋を出た瞬間に廊下の奥から聞こえてきたのは、先程までフロントにいたはずの二人組のうちの若い男の声だった。
ウソ、つけられた……!?
どうやら芝居は意味を成さなかったようだ。
最悪の事態が早くもやってきてしまい、セナの中にはどうしようもないほどの焦燥感が広がっていく。
「動くな! 止まれ!!」
二人組の若いほうの男がスーツの内ポケットをまさぐる。
戦場での実戦経験を積んでいるセナは、その動作で男が拳銃を所持していることを見抜いた。
「――チッ!」
すかさずセナは腰から自分の拳銃を抜き、男が銃を構える前に2回発砲した。
隣で震えるイヴが銃声に驚いて耳を塞ぎ、悲鳴を上げる。
床を狙った威嚇射撃により、男たちの足元に火花が散る。
相手がそれに怯んだ隙に、セナはイヴの手を引いて一気に駆け出した。
「――走って!!」
転びそうになるイヴを強引に引っ張る。
その後ろでは体勢を立て直した若いほうの男が銃を構え直していた。
「おい! "アレ"には当てるなよ!」
中年の男の声が聞こえ、背中に殺気を感じる。
その直後、駆けるセナたちの背後十数メートルの距離から響いた銃声が細い廊下に木霊した。
しかし幸いセナたちは間一髪のところで廊下の角を曲がったため、男の放った弾丸は壁に当たって小さな火花を散らしただけだった。
「はぁ、はぁ……セナさん……!」
「大丈夫! 言ったでしょ、アタシこう見えても軍人だから……!」
息を切らしながら不安そうな声を出すイヴの手をさらに強く握って走るセナ。
これからどうすればいいのかまったく見当がつかない。
しかしひとまず追手を撒き、安全な場所に身を隠すことが最優先だ。
そう考えてホテルの裏口に出たセナとイヴは、そこに停まっていた『無人タクシー』に駆け込んだ。
『ご利用ありがとうございます。画面横のマイクで目的地を設定してください』
録音された機械音声が無感情に呼びかけてくる。
画面に映った二頭身のキャラクターが、横のマイクに話しかけるようニッコリ笑って説明している。
こちらの焦りなどまったく察していないような出迎えに、セナは無性に腹が立ちそうだった。
「出して! 早く!」
『目的地を設定してください』
「そういうのいいから急いでよ!!」
『目的地を設定してください』
衝動的に前の座席を蹴り上げたセナ。
一言目的地を口にするだけでそこまで連れて行ってくれる便利な無人タクシー。
だが、具体的な場所を指定しなければ動かないのがこのときばかりは難点だった。
「ああもう! じゃあ"停戦監視軍中央屯所"!!」
『かしこまりました。シートベルトをお締めください』
セナはとりあえず頭に浮かんだ自分の職場を叫んでいた。
しかしまだ発進しようとしない無人タクシーは、乗客がシートベルトを締めるまでエンジンがかからない仕組みになっていた。
乱暴にシートベルトを伸ばすセナ。
しかし勢いをつけすぎてストッパーが働き、ベルトを引っ張ることができない。
人類が産み出した文明の利器たちが、このときばかりは無能に思えて仕方なかった。
ようやくシートベルトを締めると、無人タクシーが動き出すのとほぼ同時に後方から銃声が響いた。
弾丸はトランクに命中したようで、座席の後ろから鈍い金属音が聞こえた。
二人組の男はセナたちの乗るタクシーめがけて発砲し続けている。
セナはイヴの頭を抑えて座席に伏せたまま、タクシーがホテルから離れるのをじっと待った。
*****
『目的地までの所要時間は約51分です』
しんと静まり返った車内に機械音声が流れる。
幸いホテルの裏に停まっていた無人タクシーは1台だけだったため、男たちがすぐに追いついてくることはなさそうだ。
しかしセナたちの後ろのガラス窓には大きな蜘蛛の巣状のヒビが4つもついていて、先ほどの攻防の激しさを物語っていた。
「……セナさん、ごめんなさい……」
セナの隣で震えるイヴが、やっと聞き取れるほどの声で呟く。
それを聞いたセナはそっとイヴの手を握り締めた。
「なんでイヴが謝るの? 悪いのはアイツらなんでしょ?」
「だって、あの人たちは私を追ってきたんですよ……? 私のせいでセナさんを巻き込んでしまって……私、どうしたら……」
「それは違う。巻き込まれたんじゃなくて、アタシが勝手に首突っ込んだの。だからイヴのせいなんかじゃない」
「そうだとしても、セナさんに迷惑をかけてしまったことに変わりはないですから……」
今にも消えそうな声で謝りながらイヴはずっと俯いている。
セナがそっと銀の髪を撫でてやると、イヴはようやく顔を上げてセナの目を見た。
「イヴはアイツらのところには戻りたくないんでしょ?」
「……はい。またあの人たちの実験道具に戻るなんて、想像したくもないです」
「それはアタシも同じなの。アイツらにイヴを渡したくなかったから守った。それだけよ」
セナはそう言って未だに震えているイヴの頭を胸に抱き寄せた。
すっかり血の気が引いたイヴを温めようとするかのように腕に力を込める。
そして子どもを寝かしつけるように、セナはイヴの髪をゆっくりと撫で続けた。
「これはアタシが自分のためにしたことなの。だからイヴが気に病む必要なんて、どこにもないわ」
抱き寄せてきたセナの体温を感じてほっとしたのか、イヴの真紅の瞳から大粒の涙が零れ始める。
やがてイヴはセナの胸元にしがみついたまま、幼子のように大声をあげて泣き出したのだった。
「怖かったね。もう大丈夫。またアイツらが追ってきても、イヴはアタシが必ず守るから」
イヴが落ち着くまで、セナはずっと彼女の頭を撫で背中を擦り続けた。
二人を乗せた無人タクシーは、セナが咄嗟に定めた目的地――停戦監視軍中央屯所へ向かってぼろぼろの車体を引きずるように走ったのだった。