File.3 ◆
「アタシはセナ。セナ・ヒイラギ。停戦監視軍の軍人をやってるけど、別に怖がらなくていいからね?」
少女が泣き止んで落ち着いたため、ひとまず自己紹介をしてみた。
彼女はこれから自分の元に置いておくのだから至極当然のことだ。
「セナさん……。はい、よろしくお願いします。私の名前はイヴっていいます」
「イヴ、ね。苗字は?」
「苗字は……ありません。ただのイヴです」
真っ白な髪の少女――イヴは随分言いづらそうな表情を浮かべてそう述べた。
苗字がないなんて、どういうことだろ。
家名がない――つまり家がないってことなのかな。
突然目の前に現れ、辛い経験を語る少女には苗字がない。
先程酒を飲んでしまっていることもあって、セナは考えがまとまらずに混乱しつつあった。
「えっと、失礼なことを聞くようで悪いんだけど……孤児か何かとか、そういうことだったり……?」
「いえ、そんなことはないです。ただ、記憶がちょっと……」
なるほど、記憶喪失か……。
これは厄介そうだなぁ。
彼女の話を聞いて少しでも事情がわかればと思ったが、どうやら望みは薄そうだ。
しかし記憶を失っている上に元いた箱庭から逃げてきたというのだから、どちらにせよ放ってはおけない。
「生まれがどこなのかとか、覚えてない?」
「わかりません……」
「家族とか、兄弟とかは?」
「覚えてません……」
「それじゃあ、歳は?」
「17みたいです」
「わお、そこだけピンポイント……」
さすがに年齢だけわかっても何も進展しない。
セナは質問の形式を変える作戦に出てみることにした。
「じゃあ、何か一つでも覚えてることってない? なんでもいいの。些細なことでもヒントになったりするから」
「なんでも……覚えてること……」
セナの言葉を小さく繰り返しながら、イヴは俯いて考え込み始めた。
その様子はまるで、記憶の引き出しを開けたり閉めたりしながら、必死に何か入っていないか探しているようにも見えた。
ところが、穏やかだったイヴの様子が急変した。
額に冷や汗が滲み、呼吸が激しく乱れ、頭を抱えて苦しそうに呻き始めたのだ。
「ぅ……ぁあ、やめて……! 痛い、痛い、痛い痛い!!」
「イヴ!? なに、どうしたの!?」
突然のことにセナも取り乱す。
どうしたらいいのかもわからず、気がつくとセナはイヴを腕の中に抱き寄せていた。
「痛い、痛い、痛い……! 男の人……怖い顔をして、私に乱暴を……!!」
「落ち着いて、大丈夫。今ここにはアタシとあなたしかいないから。だから大丈夫よ……!」
頭を抑えて暴れようとするイヴを強く強く抱き締めたまま背中を擦って宥めるセナ。
次第に落ち着いていくイヴの呼吸を感じながら、セナもようやく冷静に思考することができるようになってきた。
これってもしかして、PTSDってやつ……?
それがセナの中で浮かんだ一つの仮説だった。
PTSD――俗に"トラウマ"と呼ばれるものだ。
これにより過去の恐怖体験などが突然想起され、感情が不安定となって取り乱したり泣き出したりするといった症状が出ると聞いたことがある。
男に乱暴されたショックで記憶を失ったのだろうか。
そのことはイヴがされたという実験と何か関係があるのだろうか。
しかしどれほど考察を重ねようとも、現時点ではわからないことの方が多いという事実が変わることはなかった。
「……もう大丈夫です。ごめんなさい、いきなり大きな声を出したりして」
「ううん、アタシこそ余計なことを言ったばっかりに……」
何か覚えていることはないか。
自分が軽率にそのようなことを尋ねたせいでイヴは辛い記憶を思い出してしまった。
そう思うとセナの胸は罪悪感で張り裂けそうになった。
「……私、以前は恋人がいたみたいなんです。でもその人は私に乱暴ばかりしていたみたいで、今でもそれが怖くて……」
「そっか……辛かったんだね」
セナは落ち着いた様子のイヴから腕を解いたものの、ずっと彼女の髪を撫で続けていた。
毛先だけが少しうねって赤い、真っ白な長髪。
うっとりするほどしなやかなその髪の感触を指で感じながら、セナは俯くイヴを宥め続けた。
「ねえ、何かして欲しいこととかない?」
「……え?」
唐突かとは思ったが、セナはイヴに一つ提案を持ち掛けた。
「しばらくアタシのとこにいるんだし、何かあったら何でも頼ってよ。アタシにできることならいくらでも力になるからさ」
「えっと……それじゃあ――」
視線を持ち上げ、何か言いかけたイヴ。
しかしセナと目が合うと再び俯いてしまった。
「いえ、何でもないです。気にしないでください」
「えっ、何? 遠慮しないで教えて」
セナはイヴの手を握り、彼女の目を見据えた。
イヴはしばらく黙っていたが、やがてセナの視線に根負けして口を開いた。
「えっと、それじゃあ……ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ甘えさせてくれませんか? セナさんの腕の中、すごく落ち着くので……」
「そうかな……? わかった、いいよ」
にっこりと微笑んだセナは、再びイヴをゆっくりと抱き寄せた。
イヴは額をセナの肩にコツンと当てて目を閉じている。
彼女が今何を感じ、何を考えているのかはわからないが、こんなことで喜んでもらえるならとセナもギュッと腕の力を強めてみた。
「……セナさん、いい匂いがします」
「そう? お酒飲んじゃったから少し気にしてたんだけど、よかった」
「えへへ、なんだかお姉ちゃんができたみたいですね」
17歳だと言っていたが、急に子どもっぽいことを言い出したイヴに少し胸がざわつく。
いきなりそんなこと言いだすなんて、なんか可愛いな……。
そんなことを考えているとイヴはセナの身体にグッと体重をかけてきて、二人はベッドに並んで寝転がる形になった。
セナを見つめる真紅の瞳がとても綺麗で思わず見惚れてしまう。
頬を微かに赤く染めたイヴは、セナの隣で嬉しそうに微笑んでいた。
「もし私にお姉ちゃんがいたら、こんな風に一緒に寝たりしてたのかな……?」
「それは、うん、どうだろうね」
「まあ、記憶がないので本当にいるのかどうかもわからないんですけどね」
気のせいだろうか。
そう言って笑うイヴの表情が、少しばかり悲しそうに見えたのは。
この子はずっと一人で苦しい思いをしながら逃げてきたんだ。
一体どれほどの苦悩を背負っているのか、アタシには想像もつかない。
そう思うと、急にイヴに対する同情にも似た感情が湧き上がってきた。
その感情は次第にセナの胸の中に広がり、埋め尽くし、やがて溢れそうになる。
この子は心に大きな傷を負っている。
なんとか癒してあげないと。
でも、どうすれば……?
荒んでしまった心を慰める方法なんて、アタシは"これ"しか知らない……。
「……セナさん? どうかし――」
どうしてこうなったのかはわからない。
気がつくとセナは、目の前の白い肌に映える薄桃色の小さな唇と自分の唇を触れ合わせていた。
柔らかくて、甘い。
イヴを慰めるつもりだったはずなのに、セナの方がこの甘美な感触にうっとりと魅了されていくようだった。
「…………えっ……?」
唇同士が離れると、イヴが目を丸くしてセナを見ていた。
「セナ……さん? なんですか、今の……」
「なにって、キスだけど」
「そんなのわかってます! そういうことを聞いてるんじゃなくて――」
「嫌だった?」
顔を真っ赤にして慌てるイヴとは対称的に、セナは不思議と冷静を保っていた。
「えっと……嫌とかそういう問題じゃなくて……」
尻すぼみに言葉を詰まらせるイヴ。
セナがあまりにも冷静なものだから、彼女も反応に困っている様子だ。
恥じらいからか、イヴは薄っすらと潤んだようにも見える目をセナから逸らした。
真っ白な肌が別人のように赤くなったイヴを見ていると、セナは昂ぶった衝動を抑え切れなくなった。
「あのさ、そんな顔されるとアタシ、止まれないからね」
「ちょっ、セナさ――」
反論しようとするイヴの口を再びキスで塞ぐ。
元々任務の疲れで苛ついていた上、酒を飲んでほろ酔い。
理性の枷が外れたセナはもう歯止めが効かなかった。
「ぷはぁ……何してるんですかセナさん! 私たち女同士なんですよ!?」
「それがどうかしたの? 別に子作りしようとしてるわけじゃないんだし、慰め合うだけなら女同士でもいいじゃない」
「ちょっと、落ち着いてください……! 一回話を――」
反論なんてさせない。
三度キスをしてイヴの口を塞ぐと、涙目で何かを堪えるようなイヴの顔が見えた。
暴れられないようにイヴの腕はしっかりと握ってある。
セナを止められないと観念したのか、イヴの抵抗は次第に弱まっていった。
彼女が背徳感に押し潰されそうになっているのがわかる。
それでもイヴは思い切り拒絶するような素振りを見せようとしない。
ようやく見つけた、自分を匿ってくれる人物から簡単に離れるわけにはいかないと思っているのか、それとも――
なんだろ、この気持ち。
イヴがどうしようもなく可愛い、愛おしい、尊い……。
何人の男と抱き合っても感じることのなかった初めての感覚がセナの中に溢れてくる。
これまでは身体だけ満たされて空っぽだった心が、イヴを感じていると不思議と心地いいのだ。
唇を離すと、涙目で息を整えるイヴの顔が見えた。
セナは彼女の体温をもっと感じたくて、次はイヴの首元へと唇を運んだ。
「あっ、首はまずいですよ……っ!」
「なに? "印"があったら彼氏に怒られちゃう?」
「もう、茶化さないでください……!!」
「わかったわかった。"跡"はつけないであげるから」
セナはイヴの意を汲んで、首元には優しく唇を触れさせるだけにとどめておいた。
それがくすぐったかったのか、イヴは漏れそうになる吐息を必死に堪えている様子だった。
目をギュッと閉じたままずっとセナの肩周りの服を掴んでいるイヴが、どうしようもなく可愛く思えて仕方ない。
首に当てた唇を、ゆっくりと上の方へ動かすセナ。
狙いを耳に定めたセナの息遣いを感じたのか、イヴの身体がぴくりと反応したのが分かった。
「あっ、ちょっと、耳は……!」
「へぇ、耳弱いんだ。いいこと聞いちゃった」
「もう、セナさん!!」
「大丈夫、優しくしてあげるから」
「そういう問題じゃ――」
イヴの言葉を待たず、セナは彼女の耳介を甘噛みしてみせる。
小さく「あっ」と声を漏らしたイヴの手が微かに震え、セナがもたらす感覚を堪えているのが伝わってきた。
顔を上げたセナの目を、耳まで真っ赤になったイヴが見つめ返してくる。
しかしイヴはそれに耐えられなかったようで、すぐに目を逸らしてしまった。
そしてセナは再びイヴの唇へと自らの唇を落とした。
背徳感からか言葉だけは反抗しようとするイヴも、セナの服を握り締めたまま大人しくなった。
セナによって与えられる温もりの心地よさをだんだん拒めなくなっているのだとわかると、ますます体温が上がりそうな気がした。
*****
ふと時計を見ると、時刻は午前4時になろうとしていた。
ベッドの上では布団にくるまったイヴが真っ赤な目元だけを覗かせてセナを睨んでいた。
「ごめんって、そんな顔しないでよ。嫌だったならもうしないから」
「……別に、そういうわけじゃ……。セナさん、すごく優しかったですし……」
ここでハッキリ嫌だと言わないあたりが本当にかわいらしい。
ずっと孤独と恐怖に怯えていたイヴが、セナと触れ合って何を感じたかはわからないが、少なくとも嫌われたということはなさそうだった。
「――でも、すっっっごく恥ずかしかったです」
「あはは。イヴが可愛すぎるもんだから、ついね」
布団の中で膨れっ面をしているのが外からでもわかる。
彼女の反応が初々しいのはよくわかったが、もっと自分の感情に素直になればいいのにとも思うセナだった。
まあでもそれは難しいか。
この子はまだまだ純粋みたいだし。
どこか寂しそうで悲しそうな雰囲気だったイヴは、見違えるほど表情が変わった気がする。
といっても、今の顔は怒っているような拗ねているような、そんな感じではあるのだが。
それでも、暗く重々しい表情をされるよりはずっといいと思う。
「あ、一つ言っとく。いつまでもそんな顔してたら、アタシまたスイッチ入っちゃいそうだから気をつけて」
セナの忠告を聞いてイヴは慌てて布団を被った。
ところどころから銀髪のはみ出した毛布団子を見つめていると、異様なほどの可愛らしさと愛おしさでセナの胸が騒いだ。
初回のみ3話一挙公開です!
プロローグは短いので、1話として数えてませんが笑
ぜひお付き合いください!