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世界から"四季"が完全に消え去ってから20年は経っただろうか。
今やこの惑星の大陸のほとんどは灼熱の乾燥地帯と成り果てた。
赤道直下での最高気温は80度にも達し、もはや人類が生存可能な環境となっているのは比較的低温な高緯度地方のみとなっていた。
いや、厳密には南極地方というべきだろう。
100年ほど前から指数関数的に温暖化が進行したこの惑星で、人類はちょうどその頃から南極圏に人類保護領域を確保する計画を進め始めていた。
年々上昇する気温と海面を恐れながらも、人類は約50年の歳月をかけてこの計画を完遂した。
それまでに氷河のほとんどが溶解したため海面は大幅に上昇し、四季が存在していた頃と比べると全大陸の約3割が海に沈んだ。
人類保護領域を設けた南極大陸に至っては半分以下の面積にまで減っている。
その人類保護領域が完成してからはほぼすべての人間が彼の地へ移住したが、この時点で人類の全人口は二億人を切っていた。
この人類保護領域において国家の役割を果たしているのが『箱庭』と呼ばれる城塞都市だ。
南極大陸の中でも標高の高い地域にまばらに広がるこれらの都市は、周囲の乾燥地帯からの風や砂を防ぐために街全体をドーム状の屋根で覆っている。
また、この屋根が太陽光をある程度遮断するため、箱庭内部は人類の活動に適した気温に常に調整されている。
各箱庭は独自の施政権を行使することが可能であり、それが原因で他の箱庭と抗争状態となることもしばしばある。
そういった箱庭間の抗争を仲裁するために組織されたのが『停戦監視軍』だ。
通称『監視軍』と呼ばれる彼らはどの箱庭にも所属していない。
独自の権限で行動する彼らは、各箱庭に屯所を数か所ずつ設けて駐在している。
監視軍はどの箱庭の法にも縛られない独立した組織であり、箱庭間の衝突を防ぐバランサーである。
各箱庭の内政には一切干渉することができないものの、"箱庭間での"武力衝突に対処するために彼らは日々訓練を積んでいた。
*****
兵士として監視軍に所属するこの女性の名はセナ・ヒイラギ。
肩ほどの長さで切り揃えられた黒髪とブラウンの瞳を持つ、今や数少ないアジア系――さらに言えば日系の生存者だ。
彼女はホテルの部屋でシャワーを浴びたあと軍服に着替え、自身の担当する箱庭――カノープスの停戦監視軍中央屯所へと足を運んでいた。
まだ頭痛が残っている。
昨晩は記憶がなくなるまで酒を煽っていたため、それは仕方のないことだ。
セナは自動清掃ロボットが走り回る屯所のロビーを抜け、自動販売機で適当な炭酸飲料を購入した。
それを一口飲むと、喉が焼けるかと思うほど炭酸が強い。
やっぱり炭酸ではないものにすればよかったと少し後悔しながら、セナはロビーのソファに腰を落とした。
「おっ、来るの早いな。お前にしちゃあ珍しい」
それが自分に向けられた言葉だとわかったセナは声の主を睨みつける。
視線の先では肩幅の広い大男がニヤニヤと笑いながらこちらに歩み寄ってきていた。
「おはよ、ルーカス」
「何がおはよ、だ。もうじき昼だっての」
彼の名はルーカス・ドレアー。
彼も監視軍の兵士であり、セナの同僚である。
2m近い身長とブロンドの短髪、ブルーの瞳が特徴だ。
確かアメリカ系だと言っていた気がするが、細かいことは覚えていない。
「そう言うアンタはいつも通り早いのね。任務は14時からでしょ」
「俺は誰かさんと違って真面目だからな」
「ふん、アホくさ」
憎まれ口を叩きながらさらに炭酸飲料を煽る。
喉を刺すような感覚にもだんだん慣れてきたのか、少し飲みやすくなった気がした。
「で、今日はなんでこんなに早いんだ? いつも集合時間ギリギリにしか来ないお前が」
「別に。一人で部屋にいても気が滅入りそうだっただけ」
「ま、こんな仕事してりゃあそれもわかるけどよ。素直に『ルーカスに会いたくて来ちゃった』って言っても罰は当たらねえと思うぜ?」
「いや、それだけは絶対にないから」
ジョークのつもりだったのか、腹の立つ笑顔を寄せてきたルーカスの額を指で弾く。
しかしあまり痛くなかったようで、彼は額を指で掻いてへらへらと笑っていた。
ルーカスが述べたように、停戦監視軍の任務は非常に過酷なものだ。
監視軍は箱庭同士の抗争の仲裁をはじめ、飢餓地域への物資運搬、テロ組織の鎮圧、要人警護なども請け負っている。
その過酷さ故に若い兵士は精神を病んで辞めていくか、殉職する者が多い。
セナの同期も年々軍から減っていき、今では片手で数えられるくらいになった。
その中でもセナと特に親しいのがこのルーカスという男だった。
「お前、また"煙草勧められた"のか」
「……わかるの?」
「首」
ルーカスが指差したセナの首には小さな内出血の跡があった。
セナは慌てて軍服の襟を立ててそれを隠すとルーカスを睨む。
その様子を見てルーカスはまたニヤニヤと腹立たしい笑顔を浮かべていた。
「それに、シャンプーのいい匂いがする。ガサツなお前が昼間からシャワーを浴びてるってことはそういうことだからな」
「なに匂い嗅いでんのよ気持ち悪い」
「隣に立ってるだけで匂ってくるだろうが! 別に嗅ごうとなんかしてねえよ!」
焦って反論するルーカスを見て胸が少しスッとした気がした。
ルーカスが言っていた"煙草を勧める"というのは、監視軍内での暗号のようなものだ。
監視軍の任務は過酷を極めるため、兵士たちの精神的負荷は相当なものである。
セナたちが駐在する箱庭――カノープスの兵士の間では、数少ない女性兵士と身体的関係を持つことで日々の慰めとする男性兵士も多い。
男性兵士が女性兵士に煙草を勧め、それを相手が受け取ったらその日の夜の相手として成立する。
これが監視軍内での暗黙のルールであり、セナもそうして日々のストレスから目を背ける癖があった。
「あんまり男を取っ替え引っ替えしてねえで、いい加減一人に絞ったらどうなんだ?」
「別にいいでしょ。人の好意なんて面倒くさいだけだし。身体だけの関係って割り切ったほうが楽なのよ。それにこのご時世、いい男なんてほいほい見つかるもんでもないしね」
「目の前にこんな色男がいるってのに。お前の視野は針の穴かよ」
またニヤニヤと冗談を口にするルーカスに、セナは飲み干したペットボトルを投げつける。
しかしルーカスはあっさりそれを受け止めてしまい、セナとしてはあまり面白くない展開となった。
「誰が"アンタの"なんて咥えてやるもんか。アタシじゃなくて"この子"で十分よ。なんなら一発で昇天させてあげられるしね」
セナはそう言って腰に差した拳銃をちらつかせた。
「おいおい、"俺の"はそんなに粗末じゃねえよ」
ずっとニヤニヤしていたルーカスはようやく呆れた表情を浮かべて頭を掻いた。
いつまでも彼のペースに翻弄されるのはセナとしても不本意だったため、この反応は少し気分がいい。
「それにアンタ、アタシのことタイプじゃないでしょ」
「ああ、全っっっ然好みじゃねえ」
満面の笑みで胸を張ったルーカスが嬉しそうに答えた。
女としては非常に不名誉な発言を受けているはずが、セナにとってはこの距離感が心地よかった。
「俺はもっと小さくて可憐で弱々しくて、保護欲をそそるような感じの娘が好きだ」
「おえ、趣味わっる」
「お前も人のこと言えねえだろ」
「そんなことないわよ」
ルーカスがペットボトルを再びセナに投げ返す。
それを受け止めたセナはさらに反論を続けた。
「誰だってアンタみたいなゴリラより、細くて顔のいい男が好きに決まってんでしょ」
「だからってお前、色白のガリガリが好みってな。正直引くぞ」
「なんでよー!? あの骨張った感じがいいんじゃない! くっきり浮き上がった鎖骨とか、もう最高よ?」
「やめろ、想像しちまうだろうが」
ここまで議論を展開すると、不意に二人の間に沈黙が流れた。
何の話をしているのか馬鹿らしくなった二人は、いつの間にかクスクスと笑いが零れていたのだった。
「"まだ"変わってねえみたいだな。安心したよ」
「アンタもね」
「ま、俺たちもいつまで保つか、わかんねえけどなあ」
同期をはじめとする若い兵士たちは常に前線に駆り出され、やがて精神を病んでいく。
極限の状況を生き延びて上官の椅子に座れるのはほんの一握りだけだ。
心が壊れるのは明日の任務かもしれない。
流れ弾に当たって命を落とすのは今日の任務かもしれない。
そんな不安や恐怖と常に隣り合わせながら、兵士たちはそれぞれの任務に臨むのだ。
「気合い入れるぞ。今日は任務最終日だ。これさえ乗り切れば、少しだけでもゆっくりできるんだからな」
「ったく、歳上ぶるのやめてくれない? アタシらは同期なんだから」
「お前まだ24だろ? 俺の方が歳上なのは事実なんだからいいじゃねえかよ」
ちょうど隣を通りかかった自動清掃ロボットに空のボトルを渡したセナは、午後からの任務の準備をしようとソファを立ち上がり、先を歩くルーカスに続いた。