二 赤い蝶と共に
今回ほんの少しですが流血表現があります。
正面玄関の扉を力強く押す。全面にわたり桜の絵が彫られているこの扉は、想像していたよりもかなり軽かった。張り切って思い切り押してしまったので、体が糸で前に引っ張られるようにガクンと傾く。
せっかくの初めての館からの外出。「初めの一歩」のようなことをしたかったのだが、あっさりと外に出てしまった。
前を向けば、玄関からは三本の道が続いている。真っすぐに続いている道はどうやら門へと繋がっているようだ。左右に延びている二本の道の先は見えないので分からない。
本当にすごい種類の植物だ……
この館に来てから少しは植物に詳しくなったとはいえ、まだまだ有名なものしか分からない。しかし、そんな俺でも様々な種類があることだけは分かる。庭を眺めながらチースに言われたようにひたすら真っすぐに進む。
そのうち、大きな噴水の前へ辿りついた。窓から何となく見えていたが、実際に見るとかなり大きい。一本に伸びた白い台から、水が細い糸となって放射状の線を描いている。台の上部はお盆のように丸くなっていて、その中にはブーケのように青い花の彫刻がちょこんと入っていた。
ここも真っすぐに行けばいいのだろうか?
噴水がある場所は十字路のようになっている。前後左右へと首を回して道を確認していると、狐さんが前方からやってくるのが見えた。
庭の手入れをしていたのだろう。いつもピシっとした執事みたいな格好をしているのに、今日は深緑色シャツの腕をまくり、手には手袋。茶色のズボンを黒い編み上げの長靴に入れている。加えてこれでもかというぐらい紫外線カットを意識した大きなタレ付きの麦わら帽子を被っている。いつもと変わらないのは顔の半分を覆う狐のお面だけだ。
お面姿は慣れたけれど、この格好は……
いくら顔が整っていると思われてもシュールだ。
「急に呼び出してしまってすみません」
俺が失礼なことを考えているなんて露知らず。狐さんは手袋を外しながら謝ってきた。よく見ればその手袋は深夜のテレビショッピングで紹介されていたものだ。確か細かい作業もこれで楽々!とか言われていた。あまりにテンションの高い紹介方法とテーマソングのせいで記憶に残っていた。
そういえばチースもこの前来た時、「これめっちゃ俺に似合っとるやろ」と若者に人気のブランドの新作ジャケットをどや顔で着ていた。この館の住人は意外と俺たちの世界の流行に目ざとい。
「大丈夫です。でも狐さんが俺に頼み事なんて初めてなんで驚きました」
「そうですよね」
狐さんは申し訳なさそうに微笑んだ。実際の年齢はともかく、椿やチースはその見た目の若さからか、気軽に彼らが望むように呼び捨てにしている。しかし、明らかに年上な見た目の狐さんに対しては未だにさん付けも敬語も抜けることはない。
「ある店に行って受け取ってきてほしいものがあるんです。本来なら自分で行くべきなのですが、今ここを離れるのは少し心配で……」
「心配?」
そう言って首をかしげると、狐さんはそのお面の奥に見える瞳をちらりと館へと向けた。そして沈んだ声で教えてくれた。
「お嬢様の体調があまり良くないようなので」
「え、さっき会ったけれど全然分からなかった……」
さっき見た椿はいつもと何の変わりも無いように見えたし、チースも特に彼女を気遣っているように見えなかった。でも、俺が鈍感なだけなのかもしれない。少しは仲良くなったと、まぁ一方的にだが……感じている彼らの変化に気が付けなかったことに動揺する。
「今は落ち着いていますし、お嬢様は今日みたいに体調が崩れることが良くあるんです。でも、しばらくしたら良くなるので大丈夫ですよ。あまり心配されることを好まない方なので、スタチスも私も普段通りにしています」
俺を落ち着かせるように狐さんが早口で教えてくれた。
「翠に心配をかけたくなくて何も言わなかったのでしょう」
「そうですか……」
「それなのに私が言ってしまっては後で怒られてしまいますね」
そう言って首をすくめて怖がるようにしている彼を見て少し笑ってしまう。
椿、身体弱いんだな……
心配だけれども、本人が望んでいないのなら俺もあまり表だって心配しすぎないようにしよう。そう思っていると、狐さんが一枚の紙をウエストバッグから取り出して手渡してきた。
「これを出せば相手はすぐに分かると思います。行ってくださいますか?」
「はい、任せてください。狐さんは椿の傍にいてあげてくださいね」
紙には俺には読めない文字で何か書いてある。紙を受け取り、任せてくれと満面の笑顔で言うと狐さんはようやく普段のように微笑んでくれた。二人してにこにこと微笑み、その場は穏やかな雰囲気に包まれる。
すると、彼は思い出したように「そうだ」と言いそのまま自分の手首を口元に近づける。そしてそのまま普通の人よりもやや鋭い犬歯でグッとその手を噛んだ。その手首から真っ赤な血が静かに流れる。
「え、え、ちょっ!!狐さん何やってるんですか!」
おいおいおい、今の穏やかさから一転何やってくれてるんだこの人は……
急いで駆け寄る。俺が傷口を見ようとすると、狐さんはもう片方の手で素早く傷口を隠したが、その手の隙間から新たな血が流れている。
「うわ、それ深いんじゃないですか。えっと、とりあえず止血しないと!ハンカチハンカチ……」
鞄からハンカチを取り出そうとすると止められた。
「大丈夫ですよ」
「大丈夫じゃないです!」
まるで何事も起きていないような穏やかな口調を跳ね返す。そのまま鞄を地面に置いて中からあれでもない、これでもないと物を取り出し始めた。
「翠、本当に大丈夫なんです。見てください」
狐さんの静かな声にこの期に及んでまだ言うかと険しい顔でそちらを見る。すると、狐さんが「ほら」と両手をこちらに向けていた。流れた血はまだ残っているが、先ほど噛みついた右手からは傷口がきれいさっぱりと無くなっている。
「ん……?」
確認しようと思い再び近づこうとすると、狐さんにそこで止まっているように言われ停止する。何をするのかと見ていると彼は右手を横に素早く振った。腕に残っていた血がビュッと飛ぶ。その血は地面に落ちる前に一頭の赤い蝶になり、ふわりとその羽をはためかせると狐さんの周囲をぐるぐると飛び始めた。唖然としてその蝶を目で追っていると、狐さんが腕に残った血を拭きながら微笑んできた。
「その子が道案内しますので」
色々と突っ込みたいことがありすぎて呆然としてしまう。そんな俺を見てまた申し訳なさそうな顔になった狐さんは言う。
「何だか驚かせてしまったようで……」
「ええ、かなり……」
「つい翠が人間なのを忘れてしまっていました」
そこは忘れないでほしい。まだ人間捨ててはいない。いや、でもそれだけ俺が皆と馴染んでるということだと思えば……
そう思うと嬉しいような複雑な気持ちになる。紹介してもらった蝶の方へと目を移すと、それに気がついたのかこちらへ飛んできた。パタパタと一生懸命羽を揺らしているのを見ていると何だか可愛く思えてくる。
前回は薄墨桜の花びらだったが、今回は蝶か。
慣れてきたと思って油断しちゃいけないな、そう自戒する。これから行く所もきっと何かあると思って行こう。いそいそと鞄に荷物をしまい肩にかける。そして、俺と蝶の様子を不安そうに見ている狐さんに笑顔を向ける。
「じゃ、行ってきます!」
「ありがとうございます。行ってらっしゃい」
狐さんを安心させようと手を勢いよく振る。すると狐さんも小さく返してくれた。
それを見届けると、前を向きふわふわと飛ぶ赤い蝶の後ろを歩いて行った。