一 依頼人の来ない日の過ごし方
今日は夢境の館に依頼人は来ないようだ。
前回行った時に特に言われていないし、いつものように突然の手紙も来ていない。それならば、収集部屋の窓側がまだ片付いていないのでそれを進めることにしようと思う。
どうやって片付けよう、そんなことを考えながら墨染神社へと続く階段を登る。最後の石段から足を離し、そのまま右に進もうとしたところで、ふと正面の拝殿へと続く道が目に入る。そういえば、夢境の館に迷い込んでから何度もこの神社へ訪れているが未だに参拝したことがない。
せっかく時間もあるのだから行ってみようと思い。右へと向けていたから体を前に向ける。拝殿までは少し距離があるが大丈夫だろう。
まっすぐ進み、最後に榊の木の横を大きく左に曲がる。ようやく見えた拝殿へ向かう前に手水舎で手を清めておく。冷たい水の感触に身が引き締まる。
そのまま拝殿の前に進むと、特に何か祈りたいというわけではないので、形式通りの挨拶だけをしてすぐにお参りを終えた。
もうすぐで日の入りだからか、見渡してみても俺の他に参拝者は見えない。社務所ももう閉まっているようで、ここにいるのは俺一人だった。
祭りの時はあんなに賑やかなのに普段はこんなに静かなんだな……
そう思い拝殿を見上げる。京都の由緒正しい神社から分霊されたこの神社の社は小さいながらも、その構造の独特さや、彫刻技術の細かさで見る者を飽きさせない。つい真剣に見ていると、誰かに声をかけられた。
「ようこそお参りくださいました」
神主さん、まだいたんだな。
そう思い声のした方を見ると、社務所の方から一人の神主さんがこちらに歩いてくる。眼鏡の奥から細めの目がにこやかにこちらを見つめている。神主さんというとキッチリとした髪型をしているイメージだったが、癖なのだろう。少し外にはねた黒髪が印象的だ。
何と言っていいのか分からなかったので頭を少し下げる。特に話すことも無いので、もう館へ向かおうかと思い最後にさっきより深く頭を下げこの場を去ることにした。
「逢魔が時はあの世とこの世の境界線が曖昧になります。どうぞお気を付けてお帰りください」
背中にかけられた声に驚き振り向くと、神主さんはすでにこちらに背を向け本殿の方へと向かっていた。
特に他意はないのだと思う。
神社の後ろに広がる山の裾野には夕日がかかり始めている。それを見て言っただけかもしれない。けれど、これからまさにあの世ではないがその境目である不思議な空間へ行く身としては、何だかそのことを言われているような気持になったのだ。
※※※
神主さんと別れた後、もう時間も調度良かったので墨染桜へと向かう。いつものように茂みをくぐり、夢境の館の扉がある空間までやって来た。以前は必ず起こっていた立ちくらみもいつの間にか起こらなくなっている。慣れ……なのだろうか?
扉を開け、墨染桜の間に入るとそこには誰もいなかった。依頼人が来ない日は各自自由に過ごしているのでだいたいこうだ。
そういえば、自由にってこの館以外どこに行ってるんだ?
さっき来た墨染桜の間からは何度も入って来た。けれど、まだこの館の正面玄関の外には行ったことがない。一体外はどうなっているのだろうと窓から外の景色を覗いても、見えるのは多くの花が咲き誇る庭園ぐらいだ。広大な庭園の奥になんとなく門らしきものが見えるのだが、あまり視力の良くない俺にはそれ以上は分からなかった。
館の中を色々歩き回るだけでも多くの時間を費やすため、今までは外に行ってみようと思うことはあまり無かった。けれど少しは余裕が生まれたのだろうか。最近は窓から見える外の景色に心が惹かれる。
窓の向こうを気にしながら、誰かいないだろうかと館の中を歩き回る。来た時はとりあえず館にいる人を探し、挨拶をしてから収集部屋に向かうようにしているからだ。誰もいない時もあるが、何となく人の家に来ている訳だし最初に挨拶をしないと落ち着かないのだ。
どこへ向かうか考えていると、オルゴールが流れているのが微かに聞こえる。このオルゴールの音が聞こえるということは、ラウンジに誰かいるのだろう。ラウンジにある大きなディスクオルゴールから流れる音色は聞けばすぐにそれだと分かる。
ディスクオルゴールというのは、大きな凹凸のついた円盤を変えることによってレコードのように様々な音楽を楽しむことができるというものだ。小さなオルゴールしか知らなかったので、初めて見た時はこんなに大きなものがあるんだと驚いた。
※※※
オルゴールの音に導かれるようにラウンジへと向かう。そこには椿とチースがいた。二人はすぐにこちらに気がつき挨拶をしてきた。
「こんにちは、翠。今日もよろしくお願いします」
「よっ」
椿は刺繍糸で何かの花の絵を刺しているところのようだ。その手を止めこちらを向きにこりと挨拶をする。そしてまた作業を続けた。
彼女の手先を見るとあまりの刺繍の細かさに、俺には絶対無理だと確信する。そう言えば、この館にある花のプレートの刺繍は全て彼女が紡ぎあげたものだとチースが教えてくれた。一体どれだけの時間がかかったのか想像するだけでも恐ろしい……
彼女の後ろにはこの前の依頼人が渡していった絵が飾ってある。依頼人のこの絵を椿はとても気に入ったようで、彼女が去った後に誰に向けるでもなく嬉しそうに言っていた。
「依頼人に何かを差し上げることがあっても、もらうことなんて滅多にないので……」
そして、椿は自分が過ごすことの多いラウンジに絵を飾りたいと言ったのだが、その後の狐さんの行動は素早かった。即座に額縁を持ってきて丁寧に絵を伸ばし、ラウンジに綺麗に飾ったのだ。本当に早かった。できる男はやっぱり違う。
チースは一体何をしているのかと見てみると、墨染桜の花びらを集めた箱をテーブルに置き何か作業をしているようだった。ここからではよく分からなかったのて手元を覗こうとしたが、近づく前にチースに声をかけられた。
「あ、翠。狐が来たら自分とこ来てほしい言うてたで」
「狐さんが?」
狐さんに呼ばれるなんて初めてだ。椿も初耳だったようで手を止め、不思議そうにチースを見つめている。
「庭にいるから行ってき」
そう言ってチースは「ほれほれ」と手を振ってくる。
「いや、庭って言われても……」
館から一度も出たことないので、つい怖気づいてしまう。興味はあるが、お外怖い状態だ。
「もうここ来る時立ちくらみ起こらんって言うてたやろ。ならもう外行っても大丈夫やから。そや、正面玄関出たら真っすぐ進むんよ。ほらさっさと行き。さっさと行かんと狐は怒ると怖いで」
そう言うとそのまま作業を再開してしまった。椿が「用事って何?」と聞いているが「知らん」とにべもない返事だ。俺の雇い主は椿なので行っても良いのだろうかと彼女を見る。彼女は納得していない表情だったが、
「行ってあげてください」
そう言って、頭をさげてきた。狐さんは言葉数は少ないが、いつも優しく俺に接してくれている。一人で何でもこなしている彼が頼み事だなんて日ごろの恩を返すチャンスだ。これがチースならさっさと収集部屋へ向かっただろう。
外へ出ても大丈夫だとお墨付きをもらったことだし……
二人に行ってくると告げ、いざ庭に行かんとオルゴールの音色から遠ざかる。そして、深く深呼吸をすると正面玄関の扉へと初めて手をかけた。